WBCで侍ジャパン優勝 野球の世界一をかけた第二回WBCで「侍ジャパン」が2連覇を飾りました。決勝戦が行なわれたのがロスアンゼルスのドジャースタジアムで、一度訪れたことがありますが、当時野茂選手が練習をしていたのが、記憶に残っています。日本中が熱気に包まれ、「侍ジャパン」が試合ごとに強くなり、チーム一丸となっていることがテレビ観戦をしていて感じます。チームリーダーのイチローが不振を極めましたが、最後は決勝打を放ちました。仕事師イチローは、にこりともしなかったその姿には、単なるガンバリを越えた何かを感じさせました。「個人的には想像できない苦しみ、つらさ、痛覚では感じられない痛みを感じた。ひとつ壁を乗り越えた気がする。」そして、彼のはじける笑顔を見ることが出来ました。原監督が我慢と信の一念で、不振のイチローを一番に起用しグランドに送り続ける様もまた圧巻というべきことでした。
自分に打ち克つ
このWBCの優勝は、不景気で沈みがちな日本中に、勇気と感激、感動を与えてくれ、日本列島が熱狂しました。あれから10日間あまり経過しましたが、あの様子を見るとその感動はよみがえります。イチローの姿を見ていると“頑張る”と言う言葉の意味を『自己と戦い打ち克つ』ことと捉える事ができます。私たちの人生の中で「嫌だなぁ~。辛いなぁ~。苦しいなぁ~」等の思いが起こり、ともすれば弱気になってしまう自分に気づきます。「もう良いよ」「投げ出しちゃえ~」とささやきかけるもう一人の自分、誰もがそんなもう一人の自分に打ち克とうと努力したことがあるはずです。「嫌だ、辛い、苦しい」等と思うこと全て自分自身であり、一番怖い敵は、私の心中に潜んでいる自分自身なのです。そのことを知り、そんな自分を認めることが、自分自身に打ち克つことのできる出発点のように思います。とにかくまず一生懸命、一心不乱に打ち込んでみることだと、先輩方の声が聞えてくるようです。それで乗り越えれる人は、それで良し、それができない人は、どうしたらよいのでしょうか?
がんばり過ぎない

私の若い時代ですが、クリスチャンとして“信仰を持ってがんばる”ことを強く教えられたものです。信仰をもって努力する、がんばることが、何か自分に合うといいますか好きでしたので、そのようにしてきました。(別に好き嫌いの世界では無いように思いますがーーー。)がんばりのDNAを持った日本人クリスチャンは、“信仰を持って”がんばると言いながら、いつのまにか“とにかくがんばる姿”に変わっていることがあります。とかく陥りがちな私たちの姿です。色々なことが気になり、心を配りとにかく遣り抜こうとする姿です。素晴らしいことですが、神さまとの関係を見失い自分中心になっている姿に変わっているかもしれません。がんばり過ぎてやがて疲れ果て、忍耐もできず「もうがんばれない」となるのです。
若い頃には、“信仰によってがんばる”ことで何とか切り抜けることもできます。体力と気力があるときは、出きる事が多いかもしれません。やがて、何とか“自分でがんばる”ことから脱却したいと思うようになります。“神にゆだねる”事が必要だと気づいてきます。しかし、どのようにすることなのか最初はよく分かりませんでした。楽天的なタイプの私ですが、思い煩いは意外とあります。「あまりがんばらないで、そんな時こそ神にゆだねなさい。」と人は言って下さり、妻も何度も言ってくれましたが、それが分かりません。「神様、これを何とか切り抜けることが出来るよう力を与えてください。」この祈りしか出来ないのです。次第にどうすればいいのか少しずつ分かってきます。「神様、いま思い煩いでいっぱいで、いらいらしています。あの事、この事、色々とどうしようかと不安です。どうしたらいいのか、必要なことを教えてください。」真剣に今の状況を祈ることだと少し分かってきます。そうすると、イライラ、不安が少しづつ解消してくるのです。成るしかならないのだから、今はこれだけをやる。あとのことは、神様が最善にしてくださるだろう。その時になって、祈って考えるようにしようと訓練されてきました。自分でがんばり過ぎないで、“神にゆだねる”ことが少しわかってきております。
「何も思い煩ってはいけない。思い煩うことがあれば、どんなことでも、それを聞いてくださる神に、感謝の心を持って、申し上げるがよい。」(現代訳 ピリピ4:6)
2009年4月4日 小坂圭吾

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