2008年3月25日火曜日

健康余話「歯を磨く→人格をみがく(2)」

     人格をみがく先日、知人Tさんがメールをくれました。彼は歯科に通院していましたが、最後の治療とな り歯科衛生士さんが「歯磨き指導」をしてくれたとの事。彼の磨き方は、上の一番奥の歯(親 知らず)に歯ブラシが当たっていないとのことでした。歯磨きでいちばん難しいところでもあります。ダジャレの好きな彼は、すぐに「なぞかけ」を思いつき披露しました。“私の磨き方とかけて、宝くじと解く。その心は、いつも当たらない。”なるほど面白い!と思いつつ、磨き方を学んで実行しているかな?と思ったりしました。

本論に戻しますが、歯の磨き方には、①歯本体を磨く、②歯と歯の間を磨く、③歯の基を磨く、の3つが大切で、歯の掃除(クリーニング)では徹底して磨いてくれます。歯磨きのやり方が悪いと、女性の歯科衛生士さんが「歯磨き指導」をしてくれますが、この「歯を磨く」ことには、「人格をみがく」ことに通じるものがあります。

①“歯本体を磨く”とは、自分自身を磨くことです。聖書的な考え方に基づいて、知識において、その考え方、思考、行動、言動等において自分を高めていく努力をたゆまずしていくことです。その結果、御霊の力によって品位とも言うべきものが整えられていきます。ピカピカの白い歯でも、歯磨きを怠っていれば、やがて黄色くなってしまいます。私たちの人格も、毎日磨いて向上させなければ、やがて錆付いてしまうのです。
②“歯と歯の間を磨く”とは、人と人との関係を磨くことです。家族関係の中で、特に夫婦関係の中で、教会員との関係の中で、職場での上司、同僚、部下との関係の中で、自分の在り方を考え、自分が何者かを理解していくのです。互いに刺激し合って、成長させられていきます。様々な関係の中で、基本は夫婦で、そして親子かつ兄弟という関係の中で、私たちは育てられます。神が私たちを創造されたことを思う時、人との関わり合いの中でこそ、生きることの意味が分かってくるのです。生きることは、関係の中でそれを整えていくことです。
③“歯の基を磨く”とは、私たちと主なる神との関係をいつも正しく整えておくことです。土台である歯の基がしっかりしてなければ、いかに歯の本体を磨いても意味をなさないのと同様に、私たちも生きることの土台である「主なる神との関係」をしっかりすることが大切です。聖書に生きる、福音に生きるとは、この主なる神さまとの関係を揺るぎないものにする事です。これは、私たちにとってデボーションを確立することであるとも言うことができます。

歯磨きにおいては、③歯の基を磨き、②歯と歯の間をしっかり磨くことが大切であり、それを意識して磨くことが重要だと教えられました。けれども、とかく①歯の本体を磨くことに力をいれてしまって他を疎かにしがちです。「人格を磨く」ことにおいても、実は③が最も大切であり、その次が②であり、①の自分自身を磨くことは、もちろんそれ自体大切なことに違いありませんが、これらの結果として出来てくるように思われます。優先順位を間違えてはならないことを教えられます。

        分かったつもり!
私たちの信仰生活において、“分かったつもりになっている”ことがなんと多いことでしょう。たとえば「主の恵み」についてですが、“数えて見よ主の恵み”とあるごとく、数えだしたら数え切れないほど主の恵みはあるはずです。そうは思っているものの、正直それを数えたことはありません。「主の恵み」とは、ふさわしくない者に神が与えてくださる良きものです。”ふさわしくない者に”がポイントですが、これが実に分かっていないのです。また、“恵みだ”ということがこれまた十分に分かっていない。頭で分かっていても、心で分かっていない自分を見出します。知識として分かっていることと、心から理解し腹の底にストンと落ちて分かっていることには大きな違いがあります。
「信仰は体験」と言われますが、体験を積んでこそ頭ではなく心で腹にまで落ちて分かるのだと思います。「一を聞いて十を知る」と言われますが、それは、「一部分を聞いただけで全体を理解できる程に頭がいい様子」と国語辞典に解説してありました。私たちにはどうも「十を聞いて一を知る」くらいの謙虚さが必要であり、その姿勢で物事に取り組んだほうがいいのだと思わされています。霊的な事柄については、分かったつもりにならないで「十を聞いて一を知る」姿勢でありたいと思っています。

すると、主はこう仰せられた。「行ってこの民に言いなさい。『あなたがたは聞くには聞くが、悟らない。見るには見るが、分からない。』」(現代訳 イザヤ6章9節)
 
2008年3月25日    小坂圭吾