2008年10月27日月曜日

喜び 「日本の精神・武士道(2)」

原書を英文で『Bushido―-―The Soul of Japan』札幌農学校で学んだ新渡戸稲造は、クラーク博士の熱情あふれる人格教育に感化され、孫弟子としてクリスチャンになりました。彼は、人格形成としての武士道を幼い頃から道徳律として叩き込まれ、その武士道の精神とキリストの教えが相通じるものがあり、キリスト教を受け入れたのです。彼が、アメリカで英文による『武士道』(『Bushido―The Soul of Japan』)を刊行したのは1899年(明治32年)、38歳のときです。世紀の変わり目で、日清戦争と日露戦争のあいだにあたり、彼が海外向けに執筆する気になった動機については、序文にのべています。 あるときのベルギーの著名な法学者ラブレーとの会話のなかで、「日本人はどのようにして道徳教育を授けているのか?」と問われたが返事が出来ず、アメリカで知りあった彼の奥さんにもうまく説明することが出来ない。幼い頃から武士道を道徳律として叩き込まれたことから、日本には「武士道という道徳教育」があったというひとつの得心が生まれてきたのです。新渡戸稲造は、36歳になっていました。その頃、病気療養のためにアメリカ・カリフォルニア州に滞在し、外国から日本を冷静にみつめる絶好の時であったでしょう。原書を英文で書き、サブタイトルに「The Soul of Japan――日本の魂」とつけたのです。

         当時の世界的ベストセラー「武士道(Bushido)」
 英語で書かれたこの本は、世界の各国で翻訳され世界的なベストセラーとなりました。新渡戸稲造の『武士道』は、圧倒的な熱情と祖国愛とキリスト教に対する確信がつらぬかれて、読む者を高揚させてくれます。第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが読んで感動し、友人に配るばかりか日本びいきになったといわれます。これほどに用いられた本「武士道」は、決して古めかし道徳でもなく、封建制度の因習を書いているのでもない。そこにある生き方は、人間としての普遍的な生き方・倫理観を内包した題材が多く見られます。現代の日本人がある意味で失いつつある「日本の精神」を格調高く描きあげているのです。武士道の基本的な精神は、「義」を中心におき「仁」を心とし「礼」を型として表す「勇猛果敢なフェアープレイ精神」としています。このほかにも、勇(勇気と忍耐)、誠(武士道に二言がない)、名誉(命以上に大切な価値)、忠義(何のために生きるか)、克己(自分に克つ)等が説明されています。これらを読むと、私たち日本人のバックボーンにある精神、その素晴らしいものを思い起こさせてくれるのです。

         日本人のバックボーン
私は、このブログを書きながら、岡山市丸の内中学校のN校長先生の教えを思い出しました。全校生徒千5百人くらいの中学ですが、週1回か月に1回か忘れましたが、全校生徒が校庭に集められ、N校長先生のお話があります。必ずと言って良いほどに「勉学、品位、耐乏」の言葉を色々と噛み砕いて、話をされたように思います。しっかり勉強をする、勤勉であること、品位については正義とか礼儀、勇気、優しさ、親切等について語られたように思います。そして、何事も耐え忍ぶようにと、今にして思えば、道徳教育の時間だったように思います。今でも「勉学、品位、耐乏」の言葉を忘れることはなく、この話を思い起こせば、武士道の精神が背後にあったのだなと感じます。また、私が小学校3、4年生だったとき担当してくださったN先生、とても気骨のある優しい男の先生で、今思うに「サムライ」というニックネームが似合う立派な先生でした。この先生からも、武士道に通じる日本人のバックボーンにある精神を教えられたように思います。小学校、中学校ともほんとに素晴らしい先生方に教えられたなという実感と感謝がわきあがります。
 武士道は、「いまにも消えそうな灯心」かもしれません。しかし、日本人の心に焼きついた武士道の徳目ともいうべきものは、消えるものではありません。その精神は、日本人である限り残り続けるでしょう。ぜひとも残って欲しいと強く願うものです。それは、普遍的な生き方・倫理観を内包したものだからです。そして、武士道の精神は、キリスト教の精神と相通じるものがあり、聖書の言葉にもこんな言葉があります。

「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。」 (イザヤ 40:8 現代訳)

2008年10月27日    小坂圭吾

2008年10月18日土曜日

喜び 「日本の精神・武士道(1)」

         岡山に帰省 先月、1年ぶりに故郷・岡山へ帰省しました。新幹線の岡山駅が見違えるように変わり、ちょっと戸惑いました。最初に、CLC・BOOKS岡山店を訪問です。路面電車に乗り、ゆったりとした町並み(高層ビル少なし)、道路・歩道の広いこと、歩く速度がゆっくり等を見ながら、地方の良さにホットした気持ちになります。(CLC・BOOKS岡山店については、別の項をご覧ください。)バスで実家へと向かう途中、山陽自動車道の下を横切りました。広い平野の田んぼの中を横切るこの巨大な高速道路、こんな道路が山陽地方に本当に必要なのか?岡山の知人にこのことをぶつけたところ、山陽地方の南を走る山陽自動車道は、無くても困らない程度のものとの説明でした。地方が変わりつつある中、無駄、無用なもの(立派過ぎる道路、大きすぎるショッピングセンターや工業団地、利用の少ない公共温水プール等々)が多くなったことを感じます。自然がいっぱいで閑静な地方の良さが、失われつつあることに寂しさを覚えました。

      5千円札の新渡戸稲造 この往復の新幹線の中で、「武士道―いま、拠って立つべき“日本の精神”」(新渡戸稲造著、岬龍一郎訳、PHP文庫)読みました。最近、本屋に行きますとこの種の古典ものが目に付き、読んでみようと思ったのです。グローバル化で日本の良さが失われつつある中、“日本であることの良さ”を発見させてくれた本です。アメリカの良さは認めますが、どうもアメリカの好きになれない所が多々あり、やはり日本人、日本の良い精神が我々にはあることを発見させてくれます。
 新渡戸稲造というと、旧5千円札の肖像画を思い出す方もあるでしょう。少し前までは、5千円札の新渡戸稲造、千円札の夏目漱石の時代でした。新渡戸稲造ってだれ?と聞かれると、政治家、学者、教育家と一言で答えるのは難しく、その働きが多岐にわたり、大きな足跡を残しました。何よりもこの人の与えた人格の影響力は、大きくかつ深い。彼は、北海道大学の前身である札幌農学校の草創期の卒業生(1881年)です。「少年よ、大志を抱け」で有名なウイリアム・クラーク博士が赴任した学校である。新渡戸稲造は二期生だったので、入学したときには既にクラーク博士はアメリカに帰国しており、直接指導を受けたわけではない。しかし、多くの感化を受けた一人です。

       大志、夢、希望を持つ
 札幌農学校の臨時校長として招聘されたウイリアム・S・クラーク博士は、学者、教育者、指導者として立派な人物で、熱心なクリスチャンでした。日本のプロテスタント教会の歴史は、横浜、熊本、札幌に始まる3つのバンドより出発しましたが、この札幌バンドの基盤となったのが札幌農学校です。クラーク博士は、日本での赴任期間がわずかに8ヶ月に過ぎない。この短い歳月の中で、彼は計り知れない影響を生徒たちに残しています。キリスト教にもとづく人格教育に重きをおき、それに感化されキリスト教徒になった生徒が輩出します。彼が在職8ヶ月後に「少年よ、大志を抱け」と言って立ち去ったことは有名です。この言葉の最後には、「キリストにあって」との言葉があったという説は、クラーク博士の気持ちとして一番ぴったりするようです。彼の人格教育の基がここにあり、“キリストにあって大きな志を、望みを持つ”ようにとの願いです。私たちの願いは、神に喜ばれる生き方をすることに他なりません。私たちの行動の根底にある大志、夢、希望が、キリストに結びついているかどうかを考えることが重要です。さもないと、自分中心の考えが支配します。一人一人に与えられている賜物は違い、この地球上には、過去、現在、将来にわたって私という存在は2度と出てくることはありません。私でなければ出来ない大志、夢、希望を、キリストにあってしっかりと描いて進むように!私は、クラーク博士の言葉をこの様に理解しております。

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」(詩篇62:5 新改訳)  (続く)

2008年10月18日    小坂圭吾

2008年10月4日土曜日

感謝 「バカになる、寅さん40周年(2)」

       寅さん映画の観客数寅さん映画が公開されたのが、昭和44年(1969年)8月でした。第1作の観客動員数(映画館に足を運んだ人)が54万人、第4作までは横ばいです。人気が次第に上がり、第5作から70万人そして90万人となり、第8作には148万人の観客が動員されました。昭和47年の第9作「男はつらいよ、柴又慕情」(マドンナ・吉永小百合)から更に人気上昇し189万人、そして経済の右肩上がりにつれ(?)200万人を軽く突破する観客動員数が続きます。最大の観客数は、昭和48年12月に公開された第12作「男はつらいよ、私の寅さん」(マドンナ・岸恵子)で241万人でした。その後、超ロングランになりますが、140万人から220万人の人々が毎回この映画を楽しんでいます。48作までの観客動員数を合計しますと約7970万人、日本人口の2/3が見たことになります。そして、これから海外で本格上映です。

      寅さんを見る理由作家の井上ひさし監修の「寅さん大全」の本の中で、人々はなぜ四分の一世紀もの間、このシリーズを倦むこともなく観てきたのか、その理由の一部を掲載します。
「寅さんは、一種の自由人で好きなときに好きなところへ行くことができる。成人男子の7割前後が給料生活者、給料と引きかえに自由を束縛されている。だから身軽な寅さんに憧れ、彼を観るために映画館に出かけてしまうのだ」 「渥美清の演技がまたすばらしい。渥美が寅さんか、寅さんが渥美か、どちらがほんとか分からないぐらいすばらしい」 「どちらがほんとか分からないようにするために、彼はこの25年間、出演をほとんどこの映画1本に絞ってきた。そこが偉いね。」 「彼のその誠実さが当然、寅さんにもにじみだし、お客さんは寅さんを信用する」 「寅さんと妹さくらとの情愛にいつも打たれる」 「マドンナが毎回、変わるのが楽しみ」 「そのマドンナもそのときそのときの旬の女優が選ばれるので、楽しさが2倍にも3倍にもなる」 「寅さんに妙に向学心があるのがおもしろい」 「万事金の世の中に人の情けが生きていて、それがうれしくてほっとする」   
理由をあげれば、際限がありません。まったく同感です。

私が学んだ宣教神学校のN先生は、寅さんの研究(?)をしっかりとやっておられます。神学校の授業でその学びの成果を披露してくださいました。特に、話し方についての先生の研究は教えられること大、とても面白い学びでした。先日お会いした時、寅さん映画のニュープリントのお話をすると、教会の関係者の中にも寅さん研究者(?)が多いことをお聞きしました。
  
     キリストにあってバカになる
寅さんより教えられた「バカになる」ことについて考えてみますと、私たちクリスチャンにもあてはまることが多いと思われます。職場、学校、地域の中を見渡してみると、なんとなく人望のある人を見出すことが出来ます。その人は利口ぶっている人ではなく、バカぶっている人・バカになっている人ではないでしょうか。本人がそのことを意識してなくて、自然体のままかもしれません。その人と話すと暖かみを感じ、親しみを感じます。その人のまわりにはいつのまにか人が集まり、会話も楽しくはずみます。私たちクリスチャンも小利口に生きるのではなく、バカになって生きることが必要であると教えられます。教会は競争社会ではありませんので、あるがままの自分で飾らずに生きていきたい。一人一人は、それほど立派でもなければ賢くもない。パウロのキリストにかける情熱、生き方を見ると、よくもあんなことが出来るなと思われることが多くあります。この事は私が生涯やることとして、神様から示され取り組むことだ!バカになって取り組むだ!主なる神様にかける情熱を持って、小利口に生きるのではなく、キリストにあってバカになり「明るく、やわらかく、愉快に」生きたいと願います。

「もし、あなたがたの中で、自分は頭が良いなどと考える者がいたら、そんな愚かな考えはかなぐり捨てて、ばかになるがよい。というのは、この世の知恵などは、神の御前では実につまらないものである。」(現代訳、Ⅰコリント3章18-19節)

2008年10月4日    小坂圭吾