2011年7月20日水曜日

祈り 「失敗につきあう」

     びわの収穫
我が家の庭には、少し大きな“びわの木”があります。もう20年ほど前になるでしょうか、私の教会の牧師夫人が小さな苗を持って来て下さいました。「このびわの木の葉は、病気やけがの治療にとても有効だから、ぜひ大切に育ててくださいね。」あまり手間もかけることもなく大きくなり、その葉には、今までに病気やけがの治療に何度もお世話になりました。残念なことに、びわの実はほとんど収穫できませんでした。それが今年は大収穫で、これには驚きました。
  最初の収穫を、小学校2年生の孫(女の子に)に木に登らせて30個ほど取りました。翌週には、小学校5年生の孫(男の子)に同じく30個ちぎってもらいました。その後も2回ほどに分けてもぎ取り、全部で100個余りの収穫でした。びわの実は、種が大きくて嫌いな人も多いようです。どれほどの栄養素があるのかを調べると、意外にもいろいろと栄養素があり、葉だけでなく実も貴重な果物だとわかりました。

     木から落ちる
 孫たちにやってもらったびわの収穫について、後で、少し反省をしました。それは、木から落ちてけがをしないようにと、いろいろと準備や注意をしながらやらせたことです。それよりも、「びわを取ってくれるかな?」と言って自由にやらせたら面白かっただろうと思ったのです。私が事前に梯子をかけたり、ここから登ればいいよと教えたりお膳立てをしないで、孫に試行錯誤させたら良かっただろうと思ったのです。もしかして、枝の1本折れるか、木から落ちることもあるかもしれませんが、怪我をしてもたかが“かすり傷”くらいでしょう。
 ほんの些細な出来事ですが、失敗やけがをしないようにお膳立てをしたり道筋をつけたりと、知らず知らずのうちに、「失敗から学ぶ」ことを忘れている自分に気が付きました。「失敗しない」ように出来るだけ効率よく、スムースに事が運ぶようにとの考えが走ってしまいます。私たちの子供の頃は、遊んでいて“かすり傷”は絶えることが無く、足を見るとその傷跡がいくつか残っています。孫に対する教育現場と捉えるならば、もっとおおらかに失敗もさせて良かったのではないでしょうか。

      失敗とつき合う
  私たちは、誰でも失敗しますし、時にはかなり深刻な場合もあります。「失敗は成功の母」という言葉がありますが、人が成長するうえで特に必要な経験をしなければならない失敗があり、これは“良い失敗”ということが出来るでしょう。この失敗は、成長のためにはどんどん経験するべきでしょう。経験する必要のない「悪い失敗」もあります。良い失敗に含まれない失敗は、すべて「悪い失敗」です。大きな罪を犯して、人生における深刻な失敗になることは避けるべき事と思います。それは別としても、神様を信じる私たちにとって、一見して悪い失敗と思うことも、やはり“成功の母”となりうることを知っています。その面では、何も学ぶことが出来ないような悪い失敗は、避けるべきですが、失敗に出来るだけ上手に付き合うことも大切です。人生経験を積むとは、失敗を通して自分なりの良いものを発見して、成長することを指しています。
 
  ある時、若い男性がある試験に失敗しました。今まで失敗らしい失敗、ましてや試験に落ちる経験はしたことが無い、ある意味で順調な歩みをしてきた彼でした。何年もかけて準備をし、何段階もある試験の途中で不合格になりました。まさか、この途中の段階で落とされようとは思いもかけず、彼は、さすがに落ち込みました。私は、どのように言うのが良いか「何か言ってあげなくては!」と思ったのですが、不合格になって落ち込んだことの共感をのみ伝え、忍耐して待つことにしました。若い彼にとっては、それは良い経験をしていると考えたからです。まさに“良い失敗”をしたのです。彼は、その失敗原因を考え、目標を立て直し再出発する時です。この失敗と上手につきあってほしいと祈りました。私たちは、失敗に落ち込んで弱くなっている時にこそ、主の力によって強くされるのです。

「私が弱い時にこそ、私はキリストの力によって強くなることが出来るからである。」(コリントⅡ 12:10 現代訳)

2011年7月20日    小坂圭吾