2022年5月18日水曜日

感謝「苦難・ガンと闘う(その1)」

 

お見舞いの花

緊急入院

今年の2月、家人が緊急入院することになりました。それまで、数か月間、食べても喉につかえる、戻すことを起こして、色々と試行錯誤を繰り返し、医者にも診断してもらいますが、よくは分かりませんでした。

やっとのことで、胃カメラによる検査によりガンであろうと推定され、近くの大学病院に緊急入院をすることになりました。あれから3か月間、家人と家族によるがんとの闘いの始まりです。

ガンと言えば、今や病気する方々の二人に一人は、ガンにかかる時代と言われます。私の周りでも、かなりの方々がガンと闘っておられます。

身近な事柄とは言え、その対処の方法を心得ているわけでもなく、かなり大変だろうなとは思っていました。

緊急入院ともなれば、心備えもあるわけではなく、マサカの出来事に毎日あれやこれやと忙しく1日が過ぎていきます。

本人も家族もつらい日々

ガンと確定すると、家族全員によるがんとの闘いですが、本人ばかりでなく家族もつらい日々となります。なぜもう少し早くに、家人を連れて医者に行かなかったか?との思いが頭をもたげてきます。

家人は、医者に頼らず自分で出来る治療をする、検査されるのが苦手でしたので本人の判断に譲り、遅くなったかもしれません。しかし、医者に行くそのタイミングも神様が最善に益としてくださったのであろうと、信仰により受け止めました。

まずは、半年くらいは介護にあたることになるのだろうと、私自身の生活をシンプルにする必要を感じ、臨戦態勢?を敷くことにしました。色々と仕事を整理し、あるいはストップさせてもらいました。

もう一つは、ガンに対しての知識が無いので、インターネットで調べる、図書館に行ってガンに関する本をあさりました。

色々な視点からの本がそろっていて、医者の立場で、家族の立場で、患者を支える立場で、ジャーナリストの立場で書かれた本と、ここまでそろっているのかと驚きながら読みました。

10冊ほどの本を精読し、これはと思う本は購入して、自分の書棚に入れ読み返します。ガンにかんする医学の進歩は日進月歩ですから、その点を心して読む必要があります。

中には、セカンドオピニオンとして読むような本もあり、王道の本はこれだなと選別しながら、読んでいきました。その結果、治療がされていくことをしっかり理解しながら、過ごすことが出来ました。


苦難の意味するもの

しばらくしたある日、作家の三浦綾子さんが書かれた「苦難の意味するもの」の記事に出会いました。

彼女は、若い頃から病気ばかりされていましたが、重症の帯状疱疹にかかり、翌年には直腸ガンにかかり手術をされ、その後に書かれたものです。三浦綾子さんの半生は、「病多い半生と言える」と彼女は書いています。

周りの人々から、「信仰があるのに、なぜ病気をするのか」「篤い信仰を持っているのに、神様はなぜ、あなたを病気にするのでしょう?」と言葉を発せられる。

人々は、苦難は因果応報の思想に根差してのことであると考え、それは罰なのである。しかし、聖書の中でイエスキリストは、「罰ではない。神の御業がその上に現れた苦しみなのだ」と明確に答えられたのです。

彼女が、若いとき13年間の療養生活の中で読んだ聖書のみ言葉は、どれほど慰めや力を与えられたか計り知れない。彼女と同様に、世界中のどれほどの人々が慰められ、力づけられた事か。

生まれつき体の不自由な人、病気の人、人間関係や経済問題で苦しむ人々等、様々な苦難に会っている人々にとって、イエスの言葉は、どれほど多くの人々を立ち上がらせたことであろう。

苦難の意味は、「神の御業が彼の上に現れるため」と説かれているからであると語り、更に続きます。


私は癌になったときにティーリヒの、『神は癌をもつくられた』という言葉を読んだ。その時、私は文字通り天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。

神を信ずるものにとっては、「神は愛」であり、その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって、必ずしも悪いものとは言えないのではないか。

私達は「苦難」を取り違えて受け取っているのではないか、私はティーリヒの言葉にふと思った。

(神のくださるものに、悪いものはない)私はベッドの上で、幾度もそうつぶやいた。すると、この癌という神からの素晴らしい贈り物に変わっていたのである。

いつしか私は、妙な言い方だが、(私が度々病気をするのは、もしかしたら、神にえこひいきをされているのではないか)と思うようになった。

私は肺結核、脊椎カリエス、帯状疱疹、癌と、次々にたくさんのプレゼントを神からいただいてきた。そしてその度に私は平安を与えられてきた。

この平安を思うと、私は全く、神のみ業としか言い様のない気がする。肺結核もカリエスも、長い忍耐と根気のいる病気であり、死んでゆく者の多い病気であった。

経済的にも危機にさらされる病気であった。だがその中で得たやすらぎは、説明のしようのないやすらぎであった。(「婦人之友」1982年12月号)


(神のくださるものに、悪いものはない)との言葉を、幾度もベッドの上でつぶやいた三浦綾子さん、私も同じようにつぶやきます。

(全ては、神様が造られた。そして神のくださるものに、悪いものはない)。つらい病気に耐える、長い忍耐と根気のいる病気との闘いは、経験者でなければ言い表せないものだろうと思います。

三浦綾子さんがこのように書かれたことを読むときに、苦難の意味を聖書の光によってとらえ直し、信仰によって受け止め、力と慰めをいただきました。そこには、深い意味のある事を学びたいと思います。

「苦しみに遭ったことは、私にとって良いことでした。それによって、私は御言葉を学ぶことが出来ました。」(詩編 119:71 現代訳)

2022年5月18日 小坂圭吾