2024年2月5日月曜日

感謝「神の備えられた最高の医者」

大隈重信候

人間の寿命は125歳まで
 

人生100年時代になってきていますが、人生125歳説を提唱したのは、明治大正期の首相で早稲田大学の創立者である大隈重信でした。

「人間は本来、125歳までの寿命を有している。なぜなら、動物は成熟期の5倍の生存力を持っているという。人間の成熟期は25歳というから、この理屈から推してその5倍、125歳まで生きられる」と提唱したのです。

大風呂敷の好きな彼の持論でしたが83歳でなくなりました。ただ、朝5時起床、夜9時就寝を日課とし、晩年は大好きな酒やタバコを断つなど、日々修養に努めた結果、当時の日本人の平均寿命より長寿であったと言えます。

今や、人生100年時代が到来しつつあり、若い時に教育を受け、大人になってからは働く&子育てをする、そして現役引退してその後は余生というこれまでの人生モデルを大きく変更をせざるを得なくなっています。

年齢にかかわらず新しい知識を学び、再び仕事に戻る、副業やボランティア活動をする、起業する等新しい人生設計が必要です。

私は60歳のころ、第一の現役を卒業し第二の現役に移るとき、生涯現役でありたいと願って今日に至っています。

最高の医者~名医

中高年になりますと、心のよりどころと共に、健康のことが最大の関心事になります。若い頃には、健康は重要と思いつつも十分出来ないのが我々の姿のようです。

神さまが、私たち人間の健康のために備えて下さっている最高の医者~名医ともいうべきものがあることを知りました。一つは熱であり、一つは空腹です。

まず「熱」についてですが、皆さんは、自分の平熱は何度か知っていますか?平熱が36度以下という「低体温」の人がとても多いのだそうです。

自分の体温が37℃以上になると「発熱」とされます。「発熱」は、誰にとっても一種の体における警告信号で、かつ絶妙な癒し手でもあります。

日本人の体温は、かつてよりも約1度低下して、体温の低下が代謝を悪くし免疫力を低下させ、ほとんどの病気の原因や要因になっていると言われています。

現代人の運動不足や筋肉労働の不足、食生活における食べ過ぎ、ストレス、化学調味料の摂取等が原因しているようです。

私の平熱は、36.5℃前後かなと思います。かつては35℃台が出ることがあり、これはいかん!体温が1度低下すると免疫力は約30%以上衰退し、逆に平熱より1度上昇すると、免疫力は56倍にもなると言われます。

ですから、普段から体温を上げること~1日に1回は37度を超えるように、平熱が高くなるように努力しています。具体的には、ウオーキング、筋トレ、41度の10分間入浴、冬はマフラー、マスク等により、体を冷やさないようにしています。

平熱よりも1度以上も高いのが続く場合は、病気も考えられるので要注意です。

もうひとつは空腹

もう一つの名医は、空腹です。私たちは、とかく食べ過ぎ、飲み過ぎの飽食の生活をしています。欲求のままにお腹を満足させるのではなく、空腹状態を作ることが大切であると言われます。

空腹状態に慣れていく~「空腹力」を鍛えていけば、体調がよくなります。私は胃腸だけは丈夫でしたので、空腹について考えたことがなく、時間が来ればお腹が空いてくるのですが、中高年になってあまりお腹が空かなくなってきました。

どうしたら良いかを色々と調査・研究をしました。お腹を空かせると体調も良くなり、頭もさえる~~結論は、全体の食事の量を減らす、総カロリーを減らすということです。

食事の量を減らす最たるものは、断食です。断食といえば、病気の治療や癒しに用いられ、体調を整えたり、体重が増えすぎたりで試みられます。かなり前の話ですが、私の兄が、辻堂の断食道場にお世話になった事があります。

このことや教会で断食の話を何度となく聞くにつけ、「断食は名医である」と悟るようになりました。私も体重が増えすぎますと、昼食断食することがあります。

数年前のクリスマスの時ですが、正月にかけてどうしても食べすぎになりますので妻と相談し、正月すぎまで、昼食を普段の半分以下あるいは断食しよう(半断食)と実行しました。これにより、体調良く快適に過ごせました。

紅梅

断食して祈る

断食の本格的な体験は、神学校の学びの中でリトリート(RETREAT:黙想)と言って、3日間ほど断食をしながら黙想、祈りに専念するプログラムに出席しました。

韓国から断食用の食材を調達して準備し、重湯のようなものを毎食いただきました。苦しいとかいう感じはまったくなく、消化する重いものがお腹に入っていないので、しだいに頭がさえてくるように感じられます。

夏の奥多摩地方の山中で、静かで涼しく気持ちの良い環境で祈りに十分打ち込み、体調も整えられた時間を持ちました。

教会で断食祈祷と言って、皆で「朝食あるいは昼食を抜いて、この事について祈ろう」という事に、何度も参加したことがあります。

いざとなれば断食して祈る、病気を治すことが必要ですが、普段は、食べ物と食べ過ぎに注意して、体をいつも軽やかにしておくことが、何かにつけて良いのだと思います。

時には1食か2食抜いて祈りに専念することも大切だよと、この記事を書きながら思い起こしました。

「ダビデは引きこもり、その子のために一晩中ひれ伏し、断食をして神に祈った。」(サムエル記 12:16 現代訳)

2024年2月5日 小坂圭吾

2024年1月18日木曜日

今を生きる「今年も歴史から学びたい」

ガジュマルの木(台湾にて)

ガジュマルの木

昨年の5月、誕生日記念に家族から鉢植えの木を贈られました。珍しい木だなと思いながら見ているとガジュマルの木だとわかり、「これは実にたくましい木だよ!」と家族に説明しました。

ガジュマルの木を知ったのは10年余も前、友人の勧めにより、夫婦で台湾旅行をした時に出会いました。ガジュマルは、沖縄や屋久島を始め東南アジア地域に分布する高木で、高さは20mにもなり、写真のように大変面白い形をしています。

幹の途中から気根と呼ばれる根を何本も出し、それがどんどん伸びて地面に付くと肥大して生長して、木を支える支柱根となります。

成長した気根は、地面の塗装に使われているアスファルトやコンクリートなどを突き破る威力があります。

気根を伸ばし元の木を包んで枯らしてしまうこともあり「締め殺しの植物」ともいわれ、モンスターのような感じでした。

台湾旅行を通して、色々と歴史遺産を見て回りましたが、台湾・中国の歴史の壮絶さを思い起こし、このカジュマルの木は、何かその歴史全体の流れを表しているかのように感じられました。

歴史は繰り返す 
                                                                                                                                                                                                                           歴史といえば、高校時代に学んだ受験勉強としての歴史でしたので、良くも悪くも教科書と参考書の暗記です。まずは暗記先行でしたが、今は、何故そのように書かれたのか?誰がどういう背景で書いたかを考えるようになりました。

中国でも日本でも歴史書を書いたのは、多くはその時の為政者の管理下で書かれています。わかりやすく言えば、主に戦争に勝利した側から過去の出来事を都合の良いように書くのです。

ひとつの事件でも、いろいろな見方や説があり、真実に対する意味付けはひとつではないかもしれません。為政者の管理下でなく自由に書いたものであれば見方も異なり、時代によっても、その見方や説はどんどん変わっていきます。

歴史を振り返りますと、人間は、あらゆる分野にわたり少し形を変えながら、何度も同じようなことを繰り返してきました。

聖書では、いかに人間が罪人であるかを教えていますが、科学の進歩は著しくとも、人間の心に至っては同じことを繰り返しています。

歴史に学ぶ 

「愚者は経験に学ぶが、賢者は歴史に学ぶ」の言葉がありますが、歴史に学び、今日に適用するとどうなるかを考えることが重要になります。ありとあらゆる事象に歴史はあり、過去の歴史を参考にすると見えてくるものがあります。


中国の劉邦(りゅうほう)は、中国文明の土台を築いたといわれる「漢」(BC202年に建国し、前漢として~AD8年まで)という国家を建設した人物です。

劉邦は、国の治め方について「秦」(劉邦の前にBC221年天下統一した国、短期で滅亡)から学び、急速な政治改革を断行せず、徐々に改革を推し進めていく姿勢を取りました。

その結果、十数年しか持たなかった秦に比べて、漢(俗に前漢)は200年も中国に平和をもたらしました。

劉邦は歴史から学んで生かした成功例ですが、日本では、徳川家康こそが、日本史上もっとも歴史を学んで活用したと断言できる偉人です。

昨年のNHKの大河ドラマを見つつ、あれこれ徳川家康について学ぶにつれ、彼の素晴らしさに触れることができました。

彼は膨大な書物・古典を愛読し、天下を取った後、沢山の書物を徳川御三家に贈与しています。この家康が尊敬していたのが、劉邦でした。

漢高祖・劉邦~家康の師と言われる

歴史を学ぶ意義 

「歴史を学ぶ意義は何か?」といえば、そこに登場する人々の行動や考え方から、人間とは何かを理解する手がかりを得る、自分たちにどのように生かすかを考えることでしょうか。

歴史を学んで、その中で自分にひっかかってくるものを掘り下げて知識を深める事により、やがて自分自身の人生の選択や生き方によい影響を与えてくれます。

それ故に、歴史を題材にした本が読まれ、NHKテレビをはじめ歴史番組が人々をひきつけるということでしょう。NHKBSの「英雄たちの選択」は、私も大好きな番組です。

ところで、聖書もまた壮大な歴史書のひとつです。その聖書は、歴史書の中でも深さと高さと広さにおいて最大の書であるゆえに、聖書は人生を導く書といわれるゆえんです。

この聖書と共に、生きた歴史を今年もしっかり学んでいけたらと願っています。       

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。」(ヨハネ5:39)

2024年1月18日 小坂圭吾


2023年12月30日土曜日

今を生きる「その日を精一杯生きる」

 

伊豆熱川温泉

まさかの出来事~コロナに感染

今年もまさに押し迫り、間もなく、新しい年を迎えます。今月の締め切りも目の前に迫り、やっとのことで今これを書いています。今年最後のまさかの出来事~コロナに感染しましたが、何とかしのいだところです。

妻がまず「コロナ」にかかり、介護している私もやがて来るかなと思いつつ、2日後には医者にコロナですと宣告されました。原因は、よくわかりません。

10日間ほどでコロナは去ったなと思いましたが、完治するには更に4~5日必要でした。妻は、比較的軽くて済みましたが、私は大変でした。ほぼ3日間は、水も飲めない、つばも飲み込むのにのどが痛い、薬を飲まないといけないので、痛いのを覚悟して水を口に含んで必死で飲みました。

3日間は、ほぼ何も飲まず食わずで、断食です。神学校のリトリートで2間ほど断食祈祷に参加したことがありましたので、当初は気軽に考えていましたが、のどがとにかく痛い、何ものどを通らない苦しさは、これは初めての経験でした。

後で、家族の中にコロナで同じような経験をしていた者があり、少し慰められましたが、早くに助けを求めておれば、もっと楽であったろうと思わされました。このために4キロもやせ、驚きました。


厳しいのどの痛み

普通の風邪ですと、2~3日もすれば峠を越しますが、今回は、そうではありませんでした。途中厳しい痛みのために、もう天国に引き上げてほしいなと思ったほどでした。

それほどに厳しい痛みでしたが、最初は、体がだるく熱も出てきて、やがて咳と痰が絡み、更に徐々にのどの痛みになってきました。最初からそうなるのが分かれば、それなりの手当、薬をもらったと思いますが、そうではなかったのです。

痛くなってから解熱剤を飲んでも効いてくるのは1日経過してから位ですので、その間がとにかく痛いのです。私も高齢になっていますので、やはり体は弱りました。

コロナの症状は、人それぞれと言われますが、決して甘く見てはいけません。この辛い体験は、のどもと過ぎれば熱さを忘れとなりがちですが、このように書くことを通して自戒したいと思います。

気が付いてみれば、クリスマスシーズンですが、クリスマス&年賀状の用意もしなければと思いつつ、毎日が過ぎていきます。しだいに、「クリスマス&年賀状を今年はお休みしようか?」と考え始めました。

クリスマスどころか、クルシミマスの状況の中にあり、周りの家族は、止めるようにとアドバイスしてくれます。今まで長~~い間継続してきた事ですので、簡単に決められず!?ただ気になりつつ、日が過ぎていきます。


その日を精一杯生きなさい

聖書の言葉にこのような聖句があります。

「明日のことを心配する必要はありません。いつでもその日のその日を精一杯生きればよいのです。」(マタイ6:34 現代訳)

コロナとの戦いの日々の中、明日の心配をする余裕は全くありません。その日その日をしのぐのに精一杯というところでした。

10日ほど経過してコロナは去ったなと思った時からは、年賀状はどうしようかなと考えつつも、今日やることではないと考えて、やがて見えてくるだろうと日を過ごします。

やがて、人間関係に気を遣うのもこのあたりで終わりにしても良いかなとの思いが強くなり、来年の始めに年賀状を出して、終了宣言にすることにしました。ついでに、お中元、お歳暮も来年から止めようと決めました。

考えてみれば、良し悪しは別にして、世間の思惑の中で、長い間生きてきていた自分がここにあったのかなと思わされます。人間関係に気を使い、人の顔色をうかがいながら(私はこのようにはしなかったと思っていますが)、多少とも心をすり減らして生きてきたかもしれません。

すべてが悪いわけではなく、それに縛られていたとは思いませんが、そこから自由になる自分があるなとは思わされます。このまさかのコロナによるショックがなければ、このような結論には至らなかったと感謝しています。

その日をその日を精一杯生きるとは、この数日間は、まさにその日その日を味わい、丁寧に生きている感じがします。毎日のように良い天気が続き、実に穏やかな日差しの中で、今日も生かされているのだと感じながらの生活です。

2023年もこうして生活できたことに、主なる神さまに感謝をささげます。

2023年12月30日 小坂圭吾

2023年11月15日水曜日

聖書の言葉「何をするにも時がある」

西伊豆スカイライン・ススキ

隣近所の家が取り壊し

今年になって、隣近所の家が取り壊されて売りに出され、半年もしないうちに新しい家が建ち、新しい方が引っ越して来られました。壊された家は2軒あり、ご夫婦ともよく知っている方々でした。

一人暮らしになり、高年齢では一戸建ての住まいは手間も大変で、マンション等に移られたのだろうと思われます。近所を散歩しますと、取り壊された家は、それ以外に3~4軒はあるでしょうか。

私の住む地区は、「長寿日本一」というエリアの一角で喜ばしい反面、高齢者が多い世相を反映しているかなと思われます。

この地域に移り住んでもう40年以上になりますが、来た頃の風景は、新築の家があちこちで建ち、槌の音がやむことがありませんでした。

光陰矢の如し!その新しい家も古くなり、日本の家屋は木造が多いため建て替えになるのは致し方ないとは言え、寂しさも覚えます。


無駄な時間

ピーター・F・ドラッカーの名言集「仕事の哲学」の中に、“時間管理”について述べているところがあります。私たちは、自分の時間の中で、無駄な時間をそれほど使っているとは思っていません。

ドラッカーは、「成果には何も寄与しないが無視できない仕事に時間を取られる。膨大な時間が、実はほとんどあるいはまったく役に立たない仕事に費やされる。」と書いています。

時間は、誰にも平等に与えられた一日24時間です。

ある若い人に、「私たちは、無駄な時間を過ごしているよね!」と言ってみたところ、「え、例えばどんなこと?」と聞かれました。ほとんど意識してないのでしょうが、無駄などうでもよい事に時間を費やしているものです。

私の経験から言いますと、読まなくても良かった本、おもしろくも何の益もなかった映画、ついつい時間をとられたインターネットの検索、見なくても良かったテレビ番組です。

更に、出席しなくても良かった会合、委員会等々、やめても問題の無いものは、山ほどであります。

無駄なものは止める

私たちの1日の生活は、実にさまざまで複雑です。無駄な事に時間を浪費することは、いつの日か習慣となって歯石のようにたまり、掃除をしない限り歯石は落ちません。

ドラッカーは、時間の浪費に対して、処方箋を書いています。

「年に何回か、3、4週間継続して何をしたかの記録を取る必要がある。記録を見て、日々のスケジュールを見直し、組み替えをしなさい。」「まったくしなくても何も起こらないなら、その事はやめてしまうべきである。」と勧めています。

私もこの助言を得てCHECKしますと、無駄で止めたほうがよいものが見つかりました。今では、無駄な時間を過ごすと「これは無駄だった!」と気が付きますが、なくなるわけではありません。

無駄なことを抽出するばかりか、これはやらない事にしようと決めることも大切です。優先順位をつけるとは、大事なことを選び出すことですが、逆にやらないことを決めることでもあります。

「何をやらないのか」を決めることが、案外簡単な場合もあり、そうする事により、時間の使い方を見直して、心の余裕とゆったりした時間、重要な事にはしっかり時間をかける事が出来るのです。


何をするにも時がある

時については、伝道者の書(人生論の集大成)にこんな記事があります。

「この地上には、何をするにも時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、収穫の時、壊すとき、建てる時、~~ 保存する時、投げ捨てる時、~~ 戦う時、平和の時。~~神のなさることは、皆、時にかなって美しい。」(伝道者の書3:1-8、11 現代訳)

1節「この地上には、何をするにも時がある。」とは、私たちがそのまま受け入れるべき真理であろうと思います。神様によって定められた時のことであり、神様が天地万物を時間と共にお造りになりました。

2節から8節に、神様が定められた28の時(14の対になる組み合わせ)を記してあり、「時の詩(うた)」と呼ばれています。反対の意味の言葉、好ましい時と好ましくない時が対になっています。

これらを読むと、この地上の出来事にはすべて定められた時があることを示しているのです。2節前半「生まれる時、死ぬ時」人間はだれしも、自分の生まれる時や死ぬ時を選ぶことはできません。

8節後半「戦う時、平和の時」昨今の世界で起きている戦争を思うに、私たちの人生に起こる出来事には、個人の選択を越えてどうすることもできない時があります。

これは諦めの言葉のようにも読めますが、すべての時を定めておられる神様への信頼の言葉でもあります。

一方で、私たちの意思で選択によって出来る事柄、その時があります。人生には、色々で好ましくない時が実に多くあるものです。

つらく悲しいこと、困難なことがであっても、忍耐して歩んでいくうちに、“これも神の時であったのだ”と分かるときが来るのです。

人生におけるバラバラに見える一つ一つの断片が、つなぎ合わされて行く、そこに大きな意味があったのだと分かる時があるのです。

11節「神のなさることは、皆、時にかなって美しい。」と言うのは、定められた時の背後に、全てのものをそれなりに良く造られた神様がおられることを、私たちは信じているのです。

聖書の言葉は深遠で、悟れないことが多くありますが、たとえ今は信じられない悟れなくとも、信じられる悟れる者にしてくださいと祈りたいと願います。

2023年11月15日 小坂圭吾

2023年10月16日月曜日

聖書の言葉「弱さを誇る」

壁画「最後の晩餐」

人の一生は重荷を負うて!

NHK大河ドラマ「どうする家康」、かなり視聴率が高いようですが、私も毎週この大河ドラマを楽しんでおります。このドラマを見始めて、色々なことを調べるにつけ、家康のすばらしさを実感できたように思います。

徳川300年が続いて、今日の日本の基礎が作り上げられたのは、家康ならではの功績です。

徳川家康の人生訓に「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし」がありますが、彼が残したこの言葉は、この歳になればこそ、そうだねと感じさせられます。

大河ドラマのここまでの家康の人生も大変ですが、これから更に困難が襲ってきます。ですから、このタイトル「どうする家康」「困った家康どうする」となり、実に良く出来たタイトルです。

人生における困難、まさかの出来事が次々に起こることに対して、家康はどちらかというと弱い人だったかもしれませんが、重荷を負いながら、周りの人たちの助けを得て、忍耐して歩むのです。

私たちも同様、さあどうする?

私たちの人生はどうかといえば、同じように次々と困った事、嫌な事が起きて来るものです。仕事において、上司・同僚から下の者から、こんなひどいことを言われた。家庭の中で、子供が親の言うことを聞かずに全く違う方向に動いてしまっている。

育児において不安があり、うまく子育てができてない。勉強も思う様に進まず、やる気が出なくて大変だなー。人間関係もどうもギクシャクしてー。どうも体調がすぐれないなあ。

実に色々な困った状況が次々に起こります。“さあどうする”と神様に言われているようです。困難、大変なことが起こるのが私たちの人生です。

壁画「最後の晩餐」

世界では、二つの戦争が同時進行して、何とか停戦になるように祈るしかありませんが、第2次世界大戦の最中に、素晴らしい出来事がありました。

イタリアのミラノの教会にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの名作「最後の晩餐」の巨大壁画ですが、主イエス様が、弟子たちに対して「あなた方のうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と言われた瞬間を表しています。

その壁画の部屋には一枚の写真があり、一面の瓦礫の中にこの壁画だけが建っている写真~第2次世界大戦の空襲に遭い、一帯は破壊されたが、この壁画だけは無事だった証拠です。

19438月、ファシスト政権ムッソリーニに対抗したアメリカ軍が、ミラノを空爆し町全体の約半分近くの建造物が全壊しました。

この壁画のある建物への爆撃を案じた修道士たちがミラノ市民と力を合わせて「自分の家や事務所は壊れても、いつかは建て直せる。この壁画は一度壊れたら作り直すことができない。」と考えて、壁画の周りに土嚢を積み上げて保護し残ったのです。


その後、
20年余かけて修復が完了し、このような経緯から存在自体が奇跡だと言われています。

キンモクセイ

壊れたら終わりか?~弱さを誇る

目に見えるものは、やがて朽ち、壊れていくのが世の常です。故意に壊そうとしないまでも間違って壊す、スクラップ&ビルドというようなこともあります。

目に見えるものはいつか壊され、あるいは天変地異で埋もれてしまいます。考古学の発展により発掘され、壊れかけたものを修復することで、そこに新しい発見がなされることも多くあります。

最近では環境を大切にということで、壊れかけても修理して使うことが多くなり、喜ばしい限りです。

私たちの人生においては、どうでしょうか?大失敗をしたり、人間関係が壊れたり、取り返しのつかないことをしたら、「俺の人生は終わりだ。もう立ち上がれない」あるいは「あの事だけは悔やまれてならない」と思うことはあるものです。

誰しもが、多かれ少なかれ、苦く悲しい経験、つらく痛みの経験、悪習慣の経験をしていることでしょう。幸いにもそのような経験がなくても、失敗を恐れてなかなか思い切ったことができない人もいるかもしれません。

失敗の人生、壊れた人生、どん底の人生など、深い傷や痛み等々を、聖書は実に宝だと教えています。

聖書では、「弱さ」と訳されていますが、自分の弱さを知り、その弱さを素直に認める人を神さまは好んで用いられます。

全能の神さまは、その弱さを乗り越える力を与えてくださり、長所ばかりでなくその弱さを十分に用いて下さるのです。

聖書の原理の中には、この世の原理とは全く逆なことが沢山あります。これもその一つ、神が不完全な人を用いられるという事実は、何という心強い励ましでしょうか。

「『わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。』だから今では、私は自分の弱さを喜んで誇ります。

‐‐‐なぜなら、弱いときにこそ、私は強いからです。―――無力であればあるほど、それだけ、キリストによりすがるようになるからです。」(コリント12:9~10 リビングバイブル)

2023年10月16日 小坂圭吾