2017年12月26日火曜日

祈り「信仰の本質~神を知ること」

鎌倉・建長寺にて
神を知ること

数か月前に、東京神学校(東京都練馬区)の特別講義で「信仰の本質」について、お話を聞く機会を得ました。信仰の本質とは、神との親しい交わりをすること、神の行われることを見て全存在をもってかかわること、すなわち、神を知ることです。“神について知ること”と“神を知ること”はどのように違うのか、この二つは、全く違う事柄です。

“神について知ること”は、神についての知識を得ることで、聖書や神学の勉強をすれば、知識をたくさん得ることが出来ます。しかし、これは信仰の本質のための手段にすぎませんので、知識が増えても生活に変化が起こりません。

一方、“神を知ること”は、人格を持っておられる神を個人的に知る事であり、聖霊の力によってのみ可能です。これこそが、信仰の本質であり、神を知ることを通して、生活において根本的な変化がもたらされます。

リンゴの話

カトリックのデ・メロ神父が上記の二つの違いをリンゴのたとえで話しておられます。リンゴについて知っている人とは、リンゴがどこで栽培され、1本の木にどのくらいの実がなり、どんな種類があるかを知っています。リンゴを知っている人は、リンゴがどれほど美味しいかを食べてその味を知っている人です。神を知っている人というのは、神さまと言うリンゴを食べて、いかに美味しいか、味わったことのある人なのです。

私の周りを見渡してみますと、聖書の知識はそれほどなくとも、生活と祈りを通して、絶えず神と会話をすることをしながら、神さまに接し交わりをしていく。問題があれば、神さまに祈りを通してぶつけ答えていただき、困難を乗り越えていく。こうして、神さまがいかに素晴らしい方かを体験している。これぞ、神を知ることです。

人生は問題だらけ

私たちの人生は、問題続出の日々であろうと思います。自分の仕事、健康、経済的な問題、家族のこと、人間関係、教会のこと等々、問題らしいことは何も無いという日は、1年のうちに何日あることでしょうか?前向きに表現すれば、神に祈りをささげる願い、望みでいっぱいということです。

もちろん、内容の大きさは、大小さまざまだと思われます。楽観的であるなしにかかわらず、問題は問題であり、どのように向き合うかは、とても重要です。深刻な問題もあれば、来年以降の大きな課題というレベルの問題もあり、長期戦に構えてやるしかないこともあれば、もうヤマを越えてあと一歩で乗り越えそうだという事もあります。

 私の場合、今いくつ問題があるか、神に祈っている願い、望みがあるか数えてみると8~9個はあるかなと思います。かなり重要な問題もありますが、これは祈るしかない、全能の神様に信頼して祈るしかないと家人と家庭礼拝等で祈っています。自分で考えて対策を考えるよりも、神さまに働いていただくのが、最善最良の方法だと思うからです。「絶えず祈りなさい。」(テサロニケⅡ5:17)のとおりです。


 毎日の生活の中で、色々な問題が生じて、実にさまざまな祈りを神にしますが、自己中心の小さいお願い、毎日の具体的な願いも必要で大切です。それと共に、神のみ旨にかなった大きな望みも重要です。先に、私が数えた願い、望みの中で、小さい願いと大きな望みが、今日は、半々でした。

 2か月半ほど前ですが、右手の薬指を痛めて、腱鞘炎のようになりました。少し快方に向かい使っては痛め、一時は、2週間ほど出来るだけ使わないようにしました。そのため、快方に向かいましたが、この時は、祈りの課題の中で、小さい願いが大半を占めて、大きな望みの祈りと行動がおろそかになっていました。それに気が付いた時、この右手の薬指の損傷が、ほんとに大切なことを教えて下さったと感謝しました。

「すべてのことについて感謝しなさい。」(テサロニケⅡ5:18)

来る年も、神さまの祝福が皆様の上に注がれますように。生活と祈りを通して、神さまの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知り、力強い歩みが出来るよう心からお祈りいたします。

20171225日    小坂圭吾