2011年12月20日火曜日

今を生きる 「目標を考える(2)」

     来年の手帳
 今年もあと10日余りとなりました。年の暮れの人事往来の慌ただしさと相まって、何となく気忙しく感じてきました。今週末は、祭日、クリスマスイブ、クリスマスと3連休になり、クリスマス行事が目白押しになることでしょう。この頃になりますと、手帳も2011年度から2012年度に切り替えていきます。新しい年の手帳に来月以降のスケジュールを記入しなければ、覚えておくことが出来なくなくなるからです。今年の手帳を、最初からめくりながら、去年の暮から正月にかけてはどのように過ごしたのかな?と思いにふけりながら見ていくのも楽しいものです。そして、必要な事柄を来年の手帳に記入していきます。今年のやり残しの課題も書き写します。そして、もはや新しい手帳・2012年度版に切り替えています。

      デボーション・ノート  
  ところで、皆さんは、日記帳あるいは、デボーション・ノートをつけておられますか?私は、日記帳をつけるようになったのが、もうかれこれ30年ほどになるでしょうか。日記帳と言えば、多くが11ページで厚さが3センチもあり、最初は熱心に書いても空白の日も時々、いやしばしば出て来るものです。途中から切り替えて、デボーション・ノートも兼ねたものにしたのです。色々と書店で探した結果、高橋書店の“NEW DIARY”を使い始めました。1ページに2日分入り書きやすく、出張でも持ち運びが手軽に出来ることで、もう10数年はこれを使っています。これには、年度の目標と計画、そして毎日のデボーション記録、日記帳的な記録、目標の見直しや心の棚卸、年度末になると1年間の振り返り、反省等を記入しています。

     SEE→THINK→PLAN→DO
先にPDCAサイクルについて書きましたが、このブログを読んでくださっている方の多くは、わかっているよと思われたかもしれません。そこで、今日はもう一歩踏み込んだしSEE→THINK→PLAN→DOのやり方をお話いたします。来年度の計画をこの暮れから正月にかけて考えようと思われる方も多いと思いますので、ご参考に供します。
この考え方は、ソニーの小林茂氏(当時の常務取締役・厚木工場長)が約30年前に提唱されたものです。私も箱根の研修会(歩行ラリーを使ったチームマネジメントの研修会)で直に何度か教えをいただきました。彼は、日本的な経営の良さというのをもう一度復帰させようという中から考案されたもので、それがSTPDサイクルという考え方です。“SEE”というのは、まず現場、対象をありのままに見る、事実を見ることです。「事実」と「解釈・分析」が混じらないように注意が必要です。“THINK”は、集めた事実をもとに分析したり結合したりして、「解釈」や「想い」を抱いたりして考える。“PLAN”は、それをもとに計画を立てる。そして“DO”実行です。

  このSTPDサイクルを一言で言うと、「まずありのままの事実を見て、それから分析して、計画を考えよう」ということです。PDCAが「計画をまず立てる」ところからスタートするのに比べると、STPDは「まず現状を把握しよう」というところからスタートしています。たとえば、“来年の私個人の目標、計画を立てる”テーマについて考えてみます。まず、今年1年を振り返って、①私がやった事柄について、うまくいった事、良かった事実、②やりたいと思いつつ出来なかった事、やったがうまくいかなかったことについて、事実を列挙します。大項目としては、家族のこと、仕事のこと、教会のこと、健康のことくらいに分けて、紙に書くことをお勧めします。出来るだけ多く、出し切るまで書いていきます。(SEE)次にそれらの事実を見て、分析です。(色々な方法がありますが)、一つ一つの項目について、自分にとって重要度を評価します。(◎、○、△で評価)、◎、○について、分類をするのもいいと思いますが、それらを自分なりに解釈や想いを抱いて見ることです。(THINK)そして、その中から来年は、こうしようと計画を作っていきます。出来るだけ具体的な計画にしていきます。大変大ざっぱなやり方を説明しましたが、個人の場合は、この程度のやり方で十分ではないでしょうか。私も、年末から正月明けにかけて、新年度の計画を作るつもりです。
 
 今年は、日本全体も個人においても色々なことがあった年でした。されど、様々な困難な事柄が、信仰という心のひだを少し深く磨かれたのではないかと、感謝しつつクリスマスを過ごしたいと願っております。

すべてのことについて、感謝しなさい。」(テサロニケⅠ5:18)
2011年12月20日    小坂圭吾

2011年11月30日水曜日

今を生きる 「目標を考える(1)」

    来年のカレンダー
霜月(11)はもうすぐ終わりです。文字通り霜が降る月の意味ですが、温暖化の影響でしょうか、霜を一度も見ませんでした。そして、“忙しくて師匠も走る”と言う師走(12)となります。このことばのもつ語感が、年の暮れの人事往来の慌ただしさと一致するためか、とても親しみを感じます。ところで、そろそろ来年のカレンダー、日記帳、手帳を購入されましたか?私のところにも、11月になって来年のカレンダーが数本送られてきており、先日は、本屋さんで手帳を購入しました。カレンダーは、どのカレンダーも週の始まりは日曜日から始まっていますが、手帳は、1ページに1週間のスケジュールが入り、その週の始まりが月曜日のものが多いのです。近年は少し改善されましたが、日曜日で始まる手帳で気にいったものを探すのに、かつては苦労しました。したがって、手帳だけは、心なしか早くに購入しています。

     夢・目標について
  今年1年を振り返るのは、まだ早いと思いますが、皆さんは今年目標を立てられましたか?もう10数年前に“夢”について入手した1枚の紙があります。作者は不詳です。
          夢                                                              
  夢がある者は、希望がある。  希望がある者は、目標がある。
  目標がある者は、計画がある。 計画がある者は、行動がある。  
  行動がある者は、実績がある。 実績がある者は、反省がある。  
  反省がある者は、進歩がある。 進歩がある者は、夢がある。
実に素晴らしいサイクル、一般によく言われる“PDCAサイクル (PLAN→DO→CHECK→ACTIONになっています。この考え方は、仕事ばかりでなく、個人についても何か実現していく際に使える考え方です。ここで、夢はビジョンに、希望は目的と言い換えてもいいでしょう。ここでいう夢とは、将来実現させたいと思っている望みのことです。夢よりも希望、希望よりも目標のほうが実現可能なこと、具体的な事柄ということができます。今年はこのようにやるぞ!と個人の目標を立てる、教会の目標・計画立案があるかと思います。                       
     PDCAサイクル
 PDCAサイクルとは、PLAN【計画を立てる】→DO【実行する】→CHECK【評価・検討する】→ACTION【改善策を講じる】のことです。                                          (1)計画を立てる<PLAN>―――計画を考える前にまず目的を考え、その目的に対して、計画をすなわち目標と具体策を考えていきます。私たちの悪い癖は、目的を考えないですぐに計画を立てるあるいは行動する。私も含めて、大部分の人がそのような癖を持っています。目的を考え、計画を作る。計画は大雑把なものから色々ですが、自分たちの目標レベル、内容に応じて細かさは考えて作るのが良いでしょう。計画を立てるときには、紙に書き出すことが重要で、そのことによって良い考えが与えられるものです。                                                      2)実行する<DO>―――計画したことを実行するのみです。
(3)評価・検討する<CHECK>―――これが意外とおろそかにされます。良かった!で終えてしまわないで、良かったこと/改善すべきことを洗い出します。実行し結果が出て、結果は満足に値するかどうかを考え、駄目だった時は、具体的に何が不十分だったのか。満足する結果の時は、何をしたことによってその結果を得られたか等を考えます。                    (4)改善策を講じる<ACTION>―――評価・検討した事柄を、次に生かすことです。                                                              
 このようにPDCAサイクルを回すことによって、らせん階段を上るように、私たちも成長していきます。PDCAの中で、計画を立てる項目は、大雑把なやり方であっても、しっかり考えてやることです。そして、実行し、評価・検討し、改善策に生かすのです。目標についてさらに考えてみましょう。(続く)

「目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:14)    
2011年11月30日    小坂圭吾



2011年10月19日水曜日

祈り 「心を守る」

      心の掃除
  前のブログでは、片づけ、整理整頓について書いてきました。片付け本を要約すると「いらないものを捨てる」、「ものを持たない」の2点に絞ることが出来ます。ある本では、逆転の発想で「捨てるモノ」ではなく、「残すモノを選ぶ」と教えています。確かに、捨てるかどうかと自問して迷った時、「残したいのか?」と自分に聞けば、答えが出て来るかなとも思います。
ところで、片づけ、断・捨・離がこれですべてうまくいくかと言えば、そうは簡単ではないこともあります。日常の掃除と違って、いざ片づけとなると心がそれなりに整ってないと決断ができないのです。心がむしゃくしゃしている中で、「これは必要、これは捨てる」とは出来ないのではないでしょうか。心の掃除こそ、実はもっと考えておくべきことのように思います。
                                               
     心の残痕(きずあと)
  若い20-40歳代の頃は、気分が乗らないとか、気分が落ち込んでいるとかがありましても、「それはそれとして、やるべきことはやらんとあかん!」と心のスイッチを切り替え、後ろの事を忘れて前進したように思います。ですから、あまり心や気分に左右されることなく、歩もうとしていました。そうは言っても落ち込んでいれば、力は出なかった事でしょう。
  人間関係において落ち込んだ場合ですが、正しい処理が欠かせません。人間関係で失敗して忘れても、正しく解決もしくは処理できなかったことは、後になってふっと思い出して「あの時はまずかったなあー」と苦い味、悔いのようなもの、残痕が残っているものです。
  先日ふと20数年前のある失敗のことを思い出して、妻に話しました。それは、山登りに家族と一緒に(その時は4人)出掛け、山に向かって歩く途中で、私が怒り出して気まずいまま山を登った事でした(理由は思い出せません)。妻はまったく覚えてないとのこと。その後、1か月後くらいにその失敗を雪辱すべく、同じメンバーでもう一度その山を登ったのでした。忘れられない心の残痕、もはや血は流れていませんが、主なる神にゆるしをお祈りしました。                                                   
                                                              
      心の「霊的なバケツ」                                
 数年前の話ですが、アメリカのシカゴにあるウイロークリーク・コミュニテイー教会のビル・ハイベル牧師が、心を「霊的なバケツ」にたとえて語られました。心の掃除も兼ねたとても有効なお話です。聖霊による思いは、「いのち」と「平安」ですが、心にある「霊的なバケツ」にこれらが満ちていると人々との関係、仕事や家族との関係、余暇の過ごし方がとてもスムースに行きます。大切なことを決断することも、スムースに出来ることは言うまでもありません。しかし、このバケツのエネルギーが満杯の状態から大きく減っていくと大変です。いらいらが色々と起こり、物事がスムースに進まなくなるのです。このバケツを満たす方法は、色々とあります。十分に眠る、静かに本を読む、デボーションをする、ウオーキングをする、人と楽しく食事や会話する、海に行く、山に登るなどなど。各人それぞれですが、自分は何によって満たされるのかを知っておくことが大切です。                  
                                   
      心を守る                                 
 この「霊的バケツ」をいっぱいにしておくために、毎日補充する知恵と工夫が必要です。毎日の減ったエネルギーを補充するには、第一は「デボーション」です。複雑で多忙な毎日を過ごしている方々にとっては、デボーションの時間を十分取れないかも知れません。そのためにも、自分は何でバケツがいっぱいになるか?を発見しておくことが重要です。私の場合は、毎朝デボーションで不足を満たしつつ、1日の半ばで枯渇するとウオーキングあるいはラジオ体操をする、もしくは本を読むのです。かなり枯渇すると遠くに出かける、あるいは海に行く等々これらを組み合わせてやるのです。ですから、“旅に出る”のは、心にある「霊的なバケツ」の枯渇を補ってくれる最大の方法であるばかりか、心の中の汚れや垢(あか)を洗う、心の残痕をいやす、掃除することもこの旅を通して出来るのです。旅を通して、自然や歴史や文化を学ぶ、地方の産物を賞味するばかりでなく、これも旅の大きな収穫でもあります。
                

「何よりも、心を守りなさい。いのちの泉が湧いてくるところだからである。」(箴言4:23現代訳)

2011年10月19日    小坂圭吾

2011年9月23日金曜日

喜び 「片づける(2)」

     暑さ寒さも彼岸まで
今年の残暑は、厳しい日が続きましたが、やっと秋分の日(923日)を迎えました。「暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで」という言葉をご存知ですか。先日、若い人に聞きましたら、あまり知らないとのこと。この意味は、「冬の寒さ(余寒)は春分(321日)頃まで、夏の暑さ(残暑)は秋分(923日)頃までには和らぎ、凌ぎやすくなる」という意味です。日本の慣用句ですが、季節感と共に確かにそのように暑さ寒さが凌ぎやすくなり、的を射ているなと思わされます。今年も、そのようになってホッとしますね。

ところで、今年の夏は、節電対策で扇風機を使った方も多かったことでしょう。我が家も扇風機には、例年以上に活躍してもらいました。2か月も使用しますと扇風機の羽にホコリがたまってきます。例年ですと、扇風機をしまって暖房器具を出す時、掃除をすることで事足りていました。今年は、扇風機が大活躍をしたためホコリがついて、途中で掃除をせざるを得ませんでした。やはり、片づけや掃除はこまめにやる几帳面さが要求されるようです。
                                                                                     
       机の片づけ
 皆さんの机の上は、きれいですか?机の中はどうでしょうか?机の上が物置になっている方も時々見かけますね。私の机の上には、パソコン、本立て、ペン立て、スタンド以外は置かないように心掛けています。もちろん、仕事をするとき色々な資料を持って来て、目いっぱい広げることもあります。先週は、珍しくいろいろと必用な物を持ち込んで、机・床・台の上に並べて戦線拡大もいいところ。こんなに広げてやることは多くはありません。しかし、その日の終わりには、「今日はここまで!」と区切りをつけて片づけをして、机の上はキレイにします。机の上は作業をする所なので、極力モノを置かないようにしています。

整理整頓とは、まずは物を減らすこと、そして使いやすく配置をすることです。前者が整理であり、後者が整頓になるのです。不要なものが多いと整頓は難しくなります。こうすることによって、机の上、中、キャビネット、棚、本棚、押入れもきれいに片付いてくることでしょう。日頃からこまめに整理整頓に心がけることです。
                                                                                  
       旅行と写真の整理
多くの方が苦手であろう“旅行と写真の整理”について、お話しましょう。私も“下手(へた)の横好き”と言って、コンパクトカメラで何か良いネタがあると写真を撮りまくります。その後ですぐに、画像を見て不要なものはどんどん消していくのです。したがって、パソコンに保存する段階では、おおむね半分に減っています。さらに、パソコンの画面で見て、23割は削りますので、撮影段階から見れば20-30%に減っていることでしょう。保存の時には、年月と主要なテーマを入れてファイル名にしています。プリントするのは、その中で数枚でしょうか。それが写真帳に年代順に入れてあります。


旅行に関しては、国内、海外に分けて旅行ごとの資料をしっかりとファイルし、写真の中でこれは思うものを写真帳に入れて、詳しくはパソコンにありますので、いつでも開くことが出来ます。これは、経営コンサルタント・大前研一がそのノウハウを披露してくれたのに倣って、小坂流に工夫をしています。彼は、旅は記憶するだけでなく、記録に残しておくことが大変な玉手箱になると勧めています。彼に触発され、旅行の整理がぐっと良くなりました。

整理整頓された旅行のファイルや写真をひも解くと、旅の記憶ばかりか自分の人生の過去の旅路にさかのぼることが出来、いろいろなことが一瞬にして脳裏によみがえってきます。1枚の写真からよみがえってくる人生の旅路を味わうことも、整理整頓、片づけの楽しい一面ではないでしょうか。楽しく整理整頓をしましょう。整理整頓の極意は、ほんとに必要なものは何かを考えることです。必要なものでも、使う頻度(毎日、週に一度、月に一度等々)も良く考えて配置することです。片付けは、人生における様々な場面での優先順位を考えることと同じようなことが大いにあると思わされます。人生の片づけ術の腕を、さらに磨きたいものです。

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」(ルカ 10:41)

2011年9月23日    小坂圭吾

2011年8月17日水曜日

喜び 「片づける(1)」

        断捨離
 
今年の始めごろ、妻から「断捨離(だん、しゃ、り)」という言葉を知っているかと尋ねられました。聞いたことのない言葉で、ある切り抜きを渡されました。読んでみますと「これは面白い」と感じ、さっそくインターネットで調べますと、今注目されているとのこと。皆さんは、ご存知でしたか?最近、あちらこちらで見かけるようになりました。
  ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方から来ているとのことで、10年ほど前、金沢市に住む主婦が提唱し、ブログを通して広がったとのことです。「断捨離」は、不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというものです。モノも情報もあふれかえっている現代。ともすれば、安いからと必要もないものを買い集め、捨てることもできずにいる自分。次から次へと流れてくる情報に右往左往している自分。そんな生き方に対して、不必要なものを捨てるというプロセスを積み重ねると、身の回りをスッキリさせることが出来、自分の心をも整理して行くことが出来るというものです。現代は、“いらないものをいかに捨てるかという知恵”こそが、必要な気がします。

     人生の片づけ術
  このことで思い出すのは、あの「坂の上の雲」に出てくる秋山好古の生き方です。彼は、実にシンプルな考え方、生活態度で生き抜いた人だったと思います。NHKテレビでの放映を見て刺激され、「坂の上の雲」を読み始めました。単行本は全部で8巻、いま6巻まで読み終えました。NHKテレビでの放映が終了するころには、読む方も完了したいと思います。
 ところで、わかりやすく言えば“片づけ”ですが、私もいつの間にか“片づけ上手な一人”になりました。大袈裟に言えば、人生の片づけ術ですね。世の中には、片づけコンサルタントも出て来ています。事務所はもちろん、家、書斎、物置もきれいに片づいています。妻も私に影響されて、片付けがかなり上手になったように思います。私の片づけ上手はいつごろかな?と、これを書きながら思い出してみました。それは、母の影響が大であったと思われます。実家は、それはもうきれいに片づいていましたし、母の片づけや掃除をしていた姿が目に焼きついています。どこを開けても整然としていました。祖父がきれい好きっだので、その影響も大きかったようです。ビジネスをするようになって、片付けの上手な身近の先輩を見ながら、少しづつ腕を磨いてきたように感じます。

        身のまわりの片づけ
 毎日の煩雑な生活の中で、片づけをしなければならないことが次々に起こってきます。先月でしたが、ふと時間が出来ましたので、不要なものを少し整理でもしようと思い立ちました。やってみるとほとんど片づいていて、捨てるもの、整理することもあまりありません。それよりも、大事にしている物をもっと活用しようと思い立ちました。やはり、忘れてそのままになっている物があるものです。

  “片付けの極意は何か?”と問われれば、物をすぐに分けて整理することです。必要なものと不要なものを分けて、不要と分類したものは、捨てるべき箱に入れます。期限が来れば処分をします。すぐに捨てるかどうかを迷うことがありますが、その場合は、一時置き場の箱に入れます。1-2週間後に見直しすれば、簡単に必要、不要を決めることが出来ます。寝かすことの重要さがここにもあります。
  必要と決めたものは、整理整頓をしてありますので、必要なキャビネット、本棚、ファイルに入れます。入れる際に目に触れた過去のもので、もういらないと即座にわかる時があります。それは取り出して、廃棄します。もし時間があれば、ついでにそのファイルやキャビネット、本棚を整理整頓してしまいます。要は、不要なものを減らす努力をついでにするのです。ほんの少しの時間を使ってやるのです。片づかない人の多くは、そのときそのとき片づけをしないで、後からしようとしますので片づきません。「仕事の出来る人は、片づけも上手である」いや「片づけの上手な人は、仕事も出来るようになる」と言いきってしまっていいかもしれません。片づけをうまくやれば、仕事もはかどることは確かです。

 「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」(ルカ 10:41)

2011年8月17日    小坂圭吾

2011年7月20日水曜日

祈り 「失敗につきあう」

     びわの収穫
我が家の庭には、少し大きな“びわの木”があります。もう20年ほど前になるでしょうか、私の教会の牧師夫人が小さな苗を持って来て下さいました。「このびわの木の葉は、病気やけがの治療にとても有効だから、ぜひ大切に育ててくださいね。」あまり手間もかけることもなく大きくなり、その葉には、今までに病気やけがの治療に何度もお世話になりました。残念なことに、びわの実はほとんど収穫できませんでした。それが今年は大収穫で、これには驚きました。
  最初の収穫を、小学校2年生の孫(女の子に)に木に登らせて30個ほど取りました。翌週には、小学校5年生の孫(男の子)に同じく30個ちぎってもらいました。その後も2回ほどに分けてもぎ取り、全部で100個余りの収穫でした。びわの実は、種が大きくて嫌いな人も多いようです。どれほどの栄養素があるのかを調べると、意外にもいろいろと栄養素があり、葉だけでなく実も貴重な果物だとわかりました。

     木から落ちる
 孫たちにやってもらったびわの収穫について、後で、少し反省をしました。それは、木から落ちてけがをしないようにと、いろいろと準備や注意をしながらやらせたことです。それよりも、「びわを取ってくれるかな?」と言って自由にやらせたら面白かっただろうと思ったのです。私が事前に梯子をかけたり、ここから登ればいいよと教えたりお膳立てをしないで、孫に試行錯誤させたら良かっただろうと思ったのです。もしかして、枝の1本折れるか、木から落ちることもあるかもしれませんが、怪我をしてもたかが“かすり傷”くらいでしょう。
 ほんの些細な出来事ですが、失敗やけがをしないようにお膳立てをしたり道筋をつけたりと、知らず知らずのうちに、「失敗から学ぶ」ことを忘れている自分に気が付きました。「失敗しない」ように出来るだけ効率よく、スムースに事が運ぶようにとの考えが走ってしまいます。私たちの子供の頃は、遊んでいて“かすり傷”は絶えることが無く、足を見るとその傷跡がいくつか残っています。孫に対する教育現場と捉えるならば、もっとおおらかに失敗もさせて良かったのではないでしょうか。

      失敗とつき合う
  私たちは、誰でも失敗しますし、時にはかなり深刻な場合もあります。「失敗は成功の母」という言葉がありますが、人が成長するうえで特に必要な経験をしなければならない失敗があり、これは“良い失敗”ということが出来るでしょう。この失敗は、成長のためにはどんどん経験するべきでしょう。経験する必要のない「悪い失敗」もあります。良い失敗に含まれない失敗は、すべて「悪い失敗」です。大きな罪を犯して、人生における深刻な失敗になることは避けるべき事と思います。それは別としても、神様を信じる私たちにとって、一見して悪い失敗と思うことも、やはり“成功の母”となりうることを知っています。その面では、何も学ぶことが出来ないような悪い失敗は、避けるべきですが、失敗に出来るだけ上手に付き合うことも大切です。人生経験を積むとは、失敗を通して自分なりの良いものを発見して、成長することを指しています。
 
  ある時、若い男性がある試験に失敗しました。今まで失敗らしい失敗、ましてや試験に落ちる経験はしたことが無い、ある意味で順調な歩みをしてきた彼でした。何年もかけて準備をし、何段階もある試験の途中で不合格になりました。まさか、この途中の段階で落とされようとは思いもかけず、彼は、さすがに落ち込みました。私は、どのように言うのが良いか「何か言ってあげなくては!」と思ったのですが、不合格になって落ち込んだことの共感をのみ伝え、忍耐して待つことにしました。若い彼にとっては、それは良い経験をしていると考えたからです。まさに“良い失敗”をしたのです。彼は、その失敗原因を考え、目標を立て直し再出発する時です。この失敗と上手につきあってほしいと祈りました。私たちは、失敗に落ち込んで弱くなっている時にこそ、主の力によって強くされるのです。

「私が弱い時にこそ、私はキリストの力によって強くなることが出来るからである。」(コリントⅡ 12:10 現代訳)

2011年7月20日    小坂圭吾

2011年6月20日月曜日

今を生きる 「失敗から学ぶ」

     みんなで支えあう                             
 東日本大震災から3か月が経過しました。この震災で“日本人の何かが変わった!”と私たちは感じていますが、それは、日本人の持つ良い面があらわになっているのかもしれません。震災後の私たちの行動を見ると、日本人が都市化され変わってきたと言われながらも、いざという時は「みんなで支えあう、持ち合う」という生き方の良い面がみられました。被災地で暴動や略奪もなく、食べるものがほとんどない時みんなで静かに列を作って待つという姿は、外国では考えられないと驚かれました。この姿は、阪神大震災の時にも見られたことです。           
 一方で、「みんなで一緒に」の考え方は、弱い一面もあります。原発事故に対する機敏な対応が見られないのがその一端ともいえるでしょうか。日本政府および東京電力の対応の遅さ、危機管理の無さは、残念な限りです。その中にあって、原発事故の収束に向けて日夜戦って下さっている原発所内の方々の献身的な働きを忘れてはなりません。全世界が見つめている“フクシマ”には、祈りの支援が必要です。被災という絶望に向きあって戦う東北の方々のために、私たちも忍耐強く支援を続けていきたいものです

     失敗の研究
  このような中で、実に注目すべくニュースがあります。先月24日日本政府は、東京電力福島第一原子力発電所・事故調査委員会の委員長に「失敗学」を提唱する畑村洋太郎・東大名誉教授(70)の起用を決めました。事故調査委員会は、ほかに法律や地震の専門家ら約10人で構成され、年内に中間報告をまとめ、来夏にも最終報告を出すとの方針です。              
  日本の政治、行政の見られる欠陥は、責任の所在のあいまいさ、場当たり的な対応、正確な情報を出し渋る体質、過去の「失敗の研究」の欠如---等々があげられます。これは何も今に始まったことではなく、戦前戦後を通じて、“日本の失敗”ともいうべきことです。原発事故に対しては、失敗の原因を究明しその情報を共有化することが重要です。

  失敗学は、1990年代半ば、失敗の原因を分析し再発をいかに防止するかを体系的にまとめてその基礎が作られたと言われています。それをさかのぼる10数年前、私は、大手メーカーの企業教育に携わっていました。その時、「KT法:論理的問題解決の手法」を使って、企業の物つくりにおけるトラブルの原因究明そして対策作り、再発防止をする教育に奔走しました。そのような中、「失敗学」なるものが提唱され、大手企業の中では当然のこととしてやっていましたが、学問的にまとめられることは素晴らしいことだと感じたものです。
  畑村洋太郎名誉教授は、「9世紀の昔に起こった大規模な貞観(じょうがん)地震は、ほぼ忘れられていた。加えて、人間は都合の悪いことは考えない習性があり、取り返しのつかないことの原因になる。今回、それらが重なって防災対策で不幸な結果につながった。」ぜひとも100年後の評価に耐えられる中身になることを期待しましょう。
     
     口で失敗しないように
  失敗についてわが身のことを振り返ってみますと、大きい小さいは別にしてとにかく失敗だらけの人生ということになるでしょうか?仕事の中で、対人関係の中で、親子関係の中で、夫婦関係の中で、勉強の中で、スポーツをしていてもそうです。忘れてしまっていた、勘違いをした、つい手が滑ってしまった等々小さな失敗、ミスは、私たちには事欠きません。
  失敗はすることによって次につながる良い面もあり、全てが悪いとは考えません。このような中で、一番失敗が多く何とか制御したいのが口ではないでしょうか?「口は災いのもと」ということわざを出すまでもありません。舌は、もろ刃の剣で、命を与える舌もあれば、死をもたらす舌にもなりえます。平和か争いか、理解か誤解か、建設か破壊かー。こうして書きながら、少し前のある光景を思い出します。「言っていることが間違いではないが、もう少し言葉を選ぶべきではなかったか。口数が多く、舌の制御が足りなかったな!」若いころから、言葉には注意をするように教えられてきましたが、一層の制御が必要だと感じているこのごろです。

「私たちはだれでも皆、多くの失敗をする。もし言葉の上で失敗しない人があったら、あらゆる点で自分を制御できる立派な人である。」(ヤコブ3:2 現代訳)

2011年6月20日     小坂圭吾

2011年5月16日月曜日

今を生きる 「原発事故は、想定外のことですか?」

     想定外のこと?
  東日本大震災で福島原発事故が起こり、「想定外のことが発生した」との話を何度も聞かされました。これを聞いて「何を今さらそんなことを言うの?リーダーならリーダーらしく、科学者なら科学者らしく素直に認めたらどうなの?心から謝罪でもしたらどうか!」と厳しいですが、私は感じました。
 
 専門家は、1000年以上前の平安時代にこの地域が広範に浸水した大津波を予測し、福島第一原発の想定津波の見直しを迫っていました。国会でも、原子炉冷却システムが機能しなくなる恐れがあることが指摘されながら何もしなかったのです。原発事故が起きてわかったことは、リスク分散がきわめて不十分でした。どこかが機能不全になれば他で補えるようにバックアップをして万全を期しておくのですが、この原子力発電所の場合、お粗末限りなしの状況でした。
 
     イエスの十字架と復活
  この東日本大震災からしばらくしてイースター(復活祭)があり、まもなくペンテコステ(五旬祭)の日が巡ってきます。この季節にイエス・キリストの十字架と復活を思いながら、「想定外のこと」について思い巡らしました。「イエス様が、十字架にかかられることは想定外でした。ですから、十字架にかかられるときに思わず逃げ出したのです。」とは、弟子たちは言いませんでした。イエスは何度も「私はやがて十字架にかかる」と言われ続けましたので、弟子たちは、十分すぎるほど知っていました。イエスが、総督ピラトの裁判にかかり十字架刑に処せられるとわかると、弟子たちの多くは、恐ろしくなって逃げてしまいました。これが私たちの姿でもあります。
 
 十字架にかけられたイエスが、3日目に復活されます。女の弟子たちは、イエスの葬られた墓に行くとそこは空でしたが、御使いの話を聞き、イエスがよみがえられたことを信じます。それを男の弟子たちに話しますが、誰も信じてくれません。男の弟子たちは、旧約聖書の話を十分知りつつも、「イエスが復活されるなんて、まさか?」との反応だったのです。想定外とは思いません。ヨハネは、ペテロと一緒に走って行って墓の中の様子を見て、復活されたことを信じます。その後、イエス様がいろいろな場面で顕現されますが、弟子のトマスが最後まで頑固に信じないと言い張ります。彼は知識で想定出来ていても、理解できていなかったがゆえに信じられなかったのです。思えば、私も信仰に入る前、復活について頭で理解できても信じられなかった体験があります。
 
     想定外は、実は想定内
 NHKスペシャル(57日)での東日本大震災についての検証を見ますと、今回の大震災は十分に考えられる事、“想定外ではなくて想定内である”と言えるようです。確かに千年前に起きたであろう三陸沖地震の大きさに匹敵する規模でした。原発事故について「想定外」との言葉は、責任回避以外の何物でもありません。歴史は繰り返す!私たちも、想定外と言って責任回避という同じ過ちを犯しがちなものです。過ちを素直に認めようとしない自分があります。素直に現実を認めて、間違いを素直に受け入れていくところから、新しい力が湧き出て来るように思います。
 
 このような大災害は「信じられない」というのが素直な気持ちではあります。日本ハムのトレイ・ヒルマン元監督が、日本ハムが日本シリーズに優勝した時に「信じられない!」と叫んだことは有名です。彼にとっては、優勝は想定外だったかもしれませんが、そのようなことが起こるのは神様にとっては想定内であり、だから自分にとっては信じられないと言われたのだと思うのです。すべての事柄は、主なる神様の支配下にあり、神様にとっては全てが想定内です。その神を信じる私たちは、想定外のことも想定内として受け止めるところから、主よりの新しい力をいただくことが出来るのです。そして、歴史に学ぶ者となりたいと思います。

「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)

2011年5月16日    小坂圭吾



2011年4月19日火曜日

今を生きる「東日本大震災:風化させない」

  江戸・明暦の大火
一昨日は、“シニアクリスチャンいきいきネットワーク”の会があり健康ウオーキング:江戸城内(皇居東御苑・北の丸公園)散策を実施しました。東日本大震災で福島県から避難して来られた方(私たちの教会も避難所として提供させていただいています)も参加してくださいました。2時間半約6KMのコースを作り、先導と江戸城の歴史を紹介する役割もあって、少しばかり歴史の下調べをしました。天気も快晴に恵まれ、八重桜やしだれ桜、木々も若葉を出し始めて元気と癒しを与えられました。

その中で、1657年1月の江戸・明暦の大火(振り袖火事)には、驚きました。この火事は、江戸全市の6割、4万8千戸を焼き、10万7千人が死ぬ空前絶後の大災害です。この時の江戸城は、寛永十五年(1638年)三代将軍家光のときに高さ51メートル、五層の天守閣が完成し日本一を誇っていましたが、19年後の明暦3年(1657年)に大火で跡形もなく焼失しました。2日間に及んだ火事は、江戸の町を焦土と化したのです。

焼失した翌年、天守台だけがまず修復されましたが、天守閣建設は延期され再建されることはありませんでした。幕府の重臣で四代将軍家綱の叔父にあたる保科正之の提言「戦国の世の象徴ともいえる天守閣は、もはや時代遅れで物見のためだけしか用をなさず、それより城下の復興を優先させるべきだ」により、江戸城に蓄えられていた金銀は、大名屋敷の移転や広小路の城下の復興につかわれたのです。

当時、江戸時代初期の日本人口は、約1400万人、江戸の人口は約50万人くらいであろうと思われます。(しっかりしたデータがなく、穏当であろう数字を使用)その中での死者10万人余の災害たるや空前絶後と言わざるを得ません。我々の祖先は、それを見事に乗り越えてきましたが、今回の東日本大震災も、「我々は必ず乗り越えることが出来る!」と皆さんで声を大に叫びました。日本政府は、無駄なばらまき予算のカット(高速道路無料化、高校授業料無償化、子供手当てなど)や特別会計の剰余金10兆円を使って、即復興に充ててほしいものです。

     先人の石碑
2011年3月11日、マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が襲った東日本大震災、発生から40日になります。いろいろなニュースや新聞記事の中で、一番印象に残り忘れられないのが、3月30日の読売新聞朝刊のこの記事です。

「此処より下に家を建てるな」――。巨大地震で沿岸部が津波にのまれた岩手県宮古市重(おもえ)半島東端の姉吉地区(12世帯40人)では、全ての家屋が被害を免れた。この地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和三陸大津波の後、住民たちは海抜約60メートルの場所に石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになったことで、今回の大災害から逃れることができたという。

この石碑は、昭和大津波で壊滅的な被害を受けた直後に建立され、子孫に厳しく伝えられたものです。地震が起きた日(3月11日)には、港にいた人々は、大津波の警報が発令されると、高台にある家を目指して約800メートルある坂道を駆け上がった由。巨大な波は、漁船もろとも押し寄せるも、その勢いは、石碑の約50メートル手前で止まったのです。その後の調査で、この重茂(おもえ)半島での津波は、38.9メートルの高さまで達していたことが分かり、斜面を駆けあがった津波の遡上高としては、明治三陸地震の記録を抜くことが確認されています。

     風化させない
先日、NHKニュースで復興に向けての取り組みが放送されていました。かつての教訓で“ここより下は、津波が来たので家を建てるのはダメだ”と言われながらも、月日が経つとそれが風化し、そこに建てた多くの家屋がすべて大津波で流されている現実を見ました。「自分の代には来ないさ!」と慢心して被害に合った人ですが、「人は失敗を繰り返す」という悲しいニュースでもあります。今回のこの新聞記事では、先人の教訓のおかげで集落全体が生き残った例もあることがわかり、救われた感謝な気持ちになりました。まさに“先人が残した石碑、集落を救う!”この記事の見出しが光っていました。大切なことは記録に残し、風化してしまわぬように子供に孫の代に言い伝えることを強く教えられます。無駄な繰り返しをしないように、誰も知らないと言うことが無いように心がけたいと思います。

すべてはむなしい反復を繰り返すに過ぎない。歴史は繰り返し、この地上に全く新しいものは無い。」(伝道者の書1:8-9 現代訳)

2011年4月19日    小坂圭吾

2011年3月25日金曜日

祈り「東日本大震災(2)」

     日本人の何かが変わった                         今回の大災害は、日本にとり全てのことが変わってしまうくらいの大災害です。この地震を機会に、日本人の何かしらが変わったのかもしれないと街を散歩して、車を運転して、人とすれ違う中に“ふっと感じる”のは、私一人だけではないかもしれません。それは、軽い会釈であり、譲り合いの行動の中に感じるのです。読売新聞・朝刊の「編集手帳」にこんな言葉が載っていました。「この地震を境に日本人の何かが変わったとすれば、他人の苦痛に心を寄せ、より小さな自分の苦痛に耐えるすべを学んだことかもしれない。」(2011324 朝刊)

確かにそんなことではないかと思わされています。  災害地の皆さんのことを考えながら、祈りながら過ごす中で、毎回食べる食事も質素にしつつも、「何でこんなにおいしく感じるのだろう」と言いながら、食べる毎日ではあります。自分の小さな苦痛に耐えるとまでは言いませんが、感謝なことではあります。

     私たちが出来ること                            2週間は、被災地の皆さんの苦痛を思いながら、“私たちが出来ることをできる限りする努力”をされたことでしょう。一つは、不要不急な動きをせず節約をし、具体的な支援をしようとの声がかかりました。不要不急な車を使わない、自転車や歩く事に変えて、ガソリンの節約をしました。食料品やマスク等は、ほんの少しの辛抱でした。  

節電については、どの家庭でもかなり徹底されたことでしょう。不要な電気を消し、暖房を止め、待機電力を使っているコンセントを抜く等でした。使ってない部屋は点灯しない、何とか見えればうす暗くてもそれで用事を済ませる。街や家全体が暗くなったなーと思いますが、節電をしている証拠です。前から気になっていた電球は、これを機会に省資源タイプに切り替えました。節電については、まだまだ長期にわたって継続していく必要があります。ガスや水についても、節約の工夫です。意外な節約方法にも、気が付かれたかもしれません。

ただ、肝心なことは、平常になるとこのような節約の良き習慣が、また後戻りしないように“歯止めをかける”必要があるように思います。そして、支援のお金や物資をいろいろな方面を通して提供されたことでしょう。まだまだ始まったばかりで、これからが被災地の方々が大変になるのです。祈りが必要です。                            

    心のケアをする                                                 
もう一つ重要なことは、周りの人々と交わりを通して、心のケアをしていくことです。私の所属教会(聖書キリスト教会・東京教会)では、日曜日には教会学校も一緒に子供も含めて全員での礼拝として、心のケアに力を注ぎました。これを通して、多くの方が互いに心のケアが重要だと感じ、主に対する安心を得たことと思います。その後、教会員の親族が被災している(福島県)とのことから、会堂(東京・練馬区)の一部を被災者避難所にしたのです。そのつながりで、約40人受け入れました。

この会堂を建設するときに、「東京で震度7の地震が起きてもまず大丈夫!」というレベルを確認して作りましたので、関東大震災でも来たらきっと被災者受け入れに役立つだろうと考えていました。幸いにも会堂のスペースはかなり広いので、どの部屋も使っているとはいえ、使い方を変更して避難所としています。現在の教会スタッフおよび関係者が「この先がどうなるかわからないが、何とかなるだろう」と受け入れる判断をして、良い結果を生んだのです。まさか、この会堂がこのような形で早くに役立つとは思いもよらず、彼らの良い働きに感謝です。

一番問題になっているのは、原子力発電のトラブル、放射線物質に関する件です。さまざまな情報が流れる中で、不安をあおる、間違った情報に振り回されないことです。このようなときには、正確な情報を集め、デマを信じないで行動したい。情報の出所、科学的な根拠、それを話している人の信頼性等を確認することが大切です。                      


もう一つ気になったのが、とかく他者の批判をしがちになることです。このような状況になると、××が悪い、対応が今ひとつ不足だといったような言葉を発しがちです。そのような足を引っ張るような発言をしても何も役に立ちません。聖書もこのことを厳しく戒めています。他人を批判することは止めて、前向きな方向に、自分自身が出来ることをやるように切り替えたいと思います。

人を裁いてはいけません。人を裁けば、あなたがたは神様から裁かれます。」(マタイ7:1 現代訳)                                                       

2011年3月25日    小坂圭吾

2011年3月14日月曜日

祈り 「東日本大震災(1)」

      関東大震災かな?
東日本大震災、いやあ、驚きました!その時、皆さんは、どこにおられましたか?大丈夫でしたか?私は、外出先のロビーで受付の方とお話をしているときに、グラグラと来ました。「これは関東大震災かな?」と最初思いました。その建物は、新しいしっかりした建物なので大丈夫だと思いましたが、ロビーなので逃げ隠れるところがなく戸惑いました。テレビがつけてあって、数分後に誰かが「宮城沖地震だ!」と知らせてくれました。

現在、その被害がどんどん判明してきています。初日、2日目の予想をはるかに超えている大変な被害状況です。阪神淡路大震災の時も同じような状況だったことを思い出します。

被災地の皆さま、ご親戚・ご友人が被害に遭われた皆さま、心からお見舞いを申し上げます。

     政府の対応は?
こうしてブログを書いている今も、携帯電話に緊急地震速報が入ってきました。「茨城沖で強い地震です!」と同時にかなりの揺れが起こりました。今日で3晩が経過しましたが、まだまだ余震は続いています。絶え間なく余震が続き、何か船酔いなのかと錯覚をしてしまいそうです。

こんな時はどうしたら?今は、とにかくプロの人たちにお任せするしかありません。各政党が一致協力して、政府に対応を一元化し専心してもらうことが重要のように思います。阪神淡路大震災の教訓を生かして、官邸の地下には24時間職員常駐の「危機管理センター」が設置され、そこに必要な情報が集められ分析され、指示が飛んでいるようです。きっと今、災害、危機の指揮者をとる首相は、この危機管理センターにおいて、適宜適切な指示を出しておられるのでしょう。

人命救助は「72時間以内」が重要であると言われますが、自衛隊を5万人規模からさらに増やして捜索等をするようになったことは、素晴らしいことです。各党の党首会談を何度か重ねる中で、無駄な動きはやめるような話し合いもされた由、阪神淡路大震災の教訓が生かされているようです。今の時期の大切なことは、“一にも二にも人命救助”です。政府には、迅速に隠しだてせず正直に、不都合な事実も国民に広く情報を開示してほしいと願います。

     私たちはどうしたらいいの?
私たちはこんな時にどうしたらよいのでしょうか?色々な人たちとお話をして、私なりに考えたことは以下の通りです。
第1は、周りの人々と交わりを通して、互いに心のケアをしていくことです。今の正直な気持ち:恐れ、怒り、緊張、不安等を話して、互いに受け止めることです。あるいはそこから一歩踏み込んで前向きなことや感謝なことがあるかもしれません。私自身は、緊張から一歩踏み込んで感謝なことを受け止めています。

2は、不要不急な動きをしないことです。昨日の状況ですと、多くの人がガソリンスタンドに行って給油されたようで、売り切れの看板があちらこちらに出たとのことです。交通機関が正常に動きませんので、仕事をする人には給油満タンは必要ですが、そうでない人は、少し様子を見ることではないでしょうか。ガソリンが不足することは、絶対に考えられません。食料品についても、少しの予備を買うことは良いとしても、買占めは是非やめたいものです。

3は、節約です。今日から、電気の輪番停電が始まりました。我が家では、初日から節電を意識して始めましたが(まだあるものです)、電気ばかりでなく生活全般にわたって節約をして、義捐金や教会の復興のための献金活動の時に、それをささげたいものです。     

第一段階にするべきことは、このようなことでしょうか。言うまでもないことですが、私たちには祈りを欠かすことが出来ません。特に、国の指導者たち、専門家や行政の人々、ボランティアの人たち等のために、とりなしの祈りをしていきたいと思います。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15 現代訳)

2011年3月14日    小坂圭吾

2011年2月15日火曜日

感謝 「どんなことでも感謝する(2)」

      鈍感になる                                            先月の下旬ですが、かつての仕事の仲間、同期の友人I君が歩いているのを見かけ、即座に声をかけて一緒にコーヒーを飲みました。年賀状に「今年もまた、コーヒーを飲みましょう」と書いたばかりで、早くに実現しました。席に座るや否や彼が口火を切りました。

「いやあ、この年になるととにかく鈍感なのが良いね。」私「それは、どういう意味?」I君「音楽を聴くにしても、絶対音感を持ち合わせてなくて、ちょっと音が外れていても気にならない。素晴らしいと聞けるのがいいね。食べることにしても、あまり味にうるさくなく何でもおいしくいただくことができるしね。ほどほどに鈍感が、いろいろな面で良いような気がする。」 「なるほどおもしろい!」と感心して聞きました。                  

最近の自分を振り返ってみると、何かとうるさくなっているのかな?と気になっています。あるいは、こだわりが強くなっているのか、頑固になっているのかよくわかりません。自分では、許容範囲を若い時より広げるように何かと努力をしてきていると思っているのですが、現実は違うかもしれません。はっきり言えることは、味についてはうるさくなってきているように思います。若い時からしっかり味に慣れていて、それを妻に要求するようになってきたようです。友人I君の言うように鈍感になる努力が、ほんとに必要だなとハットさせられた時で、彼には感謝しました.

     夜寝る前に
PDJブログを書き始めてからもう80本余りを書きました。今まで読んで下さった皆様には、感謝申し上げます。最近気が付いたのですが、PDJブログにある検索欄にキーワードを入れて検索すると、その該当ブログが出てくるようになっていることを知りました。さっそく「感謝」というキーワードを入れて、PDJブログを検索してみたところ、意外と沢山出てきました。確か「感謝する」というタイトルで書いた記憶があり、もちろんそれも出てきました。今回は、少し違った側面から書いてみようと日夜考えています。
                                                                           もう数週間も前の夜からですが、時々、今日1日の中で感謝することについて考えてみました。一番良かったと思うこと、感謝することが出てきます。そして、2つ、3つと考えると意外にも出てくるぞ!と感じました。このことが感謝だと言えば、これも感謝だぞ――と出てくるのです。寝る前にお祈りをした後、感謝なことを考えて6-7個くらい考えているうちに、眠ってしまったといつも感じています。                 

少し言葉を変えて、“ありがたいと感じていること”についても考えることができます。そのことを試してはいませんが、数限りなく出て来ることでしょう。 “数えてみよ、主の恵み!”という讃美歌を思い出しますが、神様の恵みを数えだしたらほんとに数限りなくなることでしょう。夜眠れなくなる?かもしれません。

      感謝の反対語
感謝するという言葉の反対語を考えてみました。『感謝』とは、ありがとうと思うこと、ありがたいことをしてくれた時に「ありがとう」という感謝の気持ちが生まれるのです。その反対は、自分にとって、ありがたくない時に思う気持ちですから、それは、『迷惑』という言葉です。自分がされて嬉しい時には、感謝の気持ちが生まれ、嫌な時には、迷惑な気持ちが生まれるのですから、感謝の反対語は、『迷惑』というのです。これは一理ありますが、人を対象にして考えた事柄です。                                                        

私たちは、人に対してだけ、誰かがしてくれたことにだけに感謝することではありません。では、『感謝』の反対語は、『当然』『当たり前』であるというのはいかがでしょうか?当たり前になってしまうと、感謝することを忘れてしまうことから反対語であるというのです。これもしかりかなと思いますが、「当たり前のことを感謝として受け取ることのできることこそ、感謝である」ということもできるでしょう。 
                                                                                                           私たちは、もっと大きく広く高く、神様に対して感謝をささげたいものです。そうなりますと、私の結論としては、「ありがとう」の反対語が無いように、「感謝する」もぴったりくるような反対語は無いと思われます。人のしてくださったことも、当たり前のことも、当たり前でないことも、自分で努力できたことも、あるいは嫌なこと、迷惑なこともすべて、その根源で神様が背後にあってそのようにしてくださっていることに感謝するのです。                                    

私たちの日常の生活は、感謝することの少ない現実があるのかもしれません。人間とは何かと考えてみますと、喜び、祈り、感謝することのできる存在なのだと聖書は教え示してくれています。たとえ今どのような状況にわたしたちが置かれていても、次の言葉を胸に刻んでいたいと思います。                         
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ 5:16-18)
2011年2月15日    小坂圭吾

2011年1月15日土曜日

今を生きる 「日本の前途を憂える(2)」

     教育放談

 昨年のクリスマスに散髪屋に行き、店主と教育放談をしました。まず私「前回の政治放談では、お互いに共感する話が多かったですね。今日は教育についてお話をしませんか?昨今の若い人のモラルの低さには、驚かされますね。」鋏をぱちぱちと入れながら、話が始まりました。散髪屋の店主「まったくだ。近頃の子供のしつけの悪いことには驚くよね。子供が散髪の番を待っている間に、平気で土足のまま座席の上に上がるんだ。それを母親が注意をしない。他のお客さんが注意をすると、仕方なしに“すみません”と言ってやっとやめさせる始末!」私「似たような光景は、電車の中でも見られますね。母親が、子供を叱れないのですね。学校教育のことで気になることは、競争をまったく避けるようなやり方をしていると聞きますね。」店主「幼稚園では、運動会で子供を走らせても1等賞、2等賞なんてない。かけっこをして順番が無くては、何の面白味もないよね。幼稚園の先生たちは、お母さん方の顔色を気にしすぎで、指導を厳しく出来ないようだね。」私「小学校の頃、悪いことをすると先生には厳しく指導されましたが、良い思い出として残っていますね。」

 散髪屋の店主は、さすがにバランスのとれた見方、考え方をしていると共感をしながら今回も放談が続きました。「この話をブログにも書くよ」と了解を得て書いています。 



モラルの喪失

日本の現状を見たとき、その抱える問題の中で“モラルの喪失”が大きな事柄としてあります。政界や官界は言うに及ばず、実業界やマスコミ、まさかこんな分野にはないだろうと思っていた警察界や教育界に至るまであらゆる分野で、かつては考えもしなかった不祥事やスキャンダルが起こっています。少年犯罪についても、年々若年化し凶悪化してきています。日本人の高い道義精神、モラルが地に落ちているのです。その原因は、家庭での教育、学校での教育の崩壊にあると思われます。また社会全体でも取り組む姿勢が弱いのです。人間としての基本的なしつけが必要です。集団の中での道徳心や責任感、最低限のルールやモラルを学ばせることです。言葉を変えるならば、「自立した人間を育てる」ことに欠如しているのです。他人と協調・協力し合いつつ、自分が自立して生きていくことを教えていくことが必要です。


海外で働きたくない若者

産業能率大学が新入社員(400人)を対象に行った調査によれば、「海外で働きたいと思うか?」の問いに対して、「海外で働きたくない」と答えた若者が、前回2007年の36%から2010年は49%に急増しています。ほぼ半数の若い人たちが、海外勤務を拒否しています。働きたくない理由(複数選択)ですが、「海外勤務はリスクが高いから」(56%)「自分の能力に自信がないから」(55%)というものです。この傾向は、異文化に飛び込んでいくことの不安や大変さがあるからでしょうが、情けないとしか言いようがありません。「井の中の蛙、大海を知らず」―― 井戸の中に住む蛙は、その井戸のほかに大きい海があることを知らないでいる。自分の周りのごく限られた範囲のことしか考えない見聞の狭いことを言いますが、若い人たちがそのような考えに終始しないことを願います。



     競争について

競争を避ける日本の教育は、評価がクラスで何番にいるかという相対評価から、個人の達成度を表わす絶対評価に変わっています。良い面もありますが、こんなだけで進歩があるとはとても思えません。競争のないところに進歩など生まれないからです。相対評価があるから自分の能力を客観的に把握する、すなわち優れた点と足りない点を認識して努力できるのではないでしょうか。小学校の運動会での徒競走は、同じようなレベルの子供を集めて、ヨーイドンで走らせて1着、2着-など無いと聞いています。(地域差はあるようですが)子供たちにとっても、おもしろくもない運動会のように思いますが。勉強であまりできない子どもは、スポーツでは優れている子が多かったように思います。その芽が摘まれているように思います。


私の中学時代ですが、期末の成績はいつも成績の順番が張り出されました。そのことによって、自分の位置がよく理解でき、何が強くて何が弱いかを認識できました。このようなことの良い点は多々あると思います。競争を回避するような教育を受けた若い人たち、仕事に就くとそこは競争の社会です。世界を見ると中国、韓国、インド等の国々では、能力も精神も体力も鍛え上げられた若者が、競争の中で生き抜いて、表舞台に上がってくるのです。これでは、政治の世界でも経済の世界でもやられっぱなしの日本になってしまいます。何もいたずらに競争をすればよいとは思いませんが、一所懸命に一生懸命やるからには、競争に勝ちうるように努力するところに面白味があるように思います。私たち親としては、信仰という観点から、たくましくしっかり競争に勝ちうる子供や孫を育てたいと願ってやみません。



「私たちの信仰生活という競争を一生懸命やろうではないか。」(へブル 12:1 現代訳)



2011年1月15日    小坂圭吾