2008年8月21日木曜日

コーヒーブレイク 「豊か過ぎる社会に思う」

    次期米大統領選  
先週18日(土)に、 次期米大統領を目指す民主党のオバマ、共和党のマケイン両候補の初顔合わせが実現しました。カリフォルニア州レークフォレストで行われたキリスト教福音派の対話集会に、サドルバック教会のリック・ウオーレン牧師が二人を招く形で開かれました。

両者はそれぞれ主催者と対話する形を取り、リック牧師がそれぞれ1時間づつ同じ内容を質問しました。両候補の全米支持率は、ほぼ互角で今後どのような展開になるのでしょうか。

アメリカのサブプライムローン問題が昨年の8月に表面化し、米国経済は衰退の一途をたどり、世界経済も雲生きが悪くなりそうです。ガソリン価格、食品価格の高騰が起こっています。

その原油価格ですが、7月には147㌦/バレルのピーク相場をつけ、先週末には111ドルまで下がり、更に下がることを願うばかりです。この原油高を背景に、富を蓄積するアラブの王族と世界中のマーケットを席巻するオイルマネーの実態に切り込んだ「アラブの大富豪」(前田高行著、新潮新書)読んでみました。
 
    アラブ産油国の現状   
中東には世界の石油と天然ガスの半分が眠っており、アラブ産油国は、ペルシャ湾のアラビア半島側に6つの王制国家がある。クウエイトから順に南に下がり、サウジアラビア、バハレーン、カタル、アラビア首長国連邦(UAE)、オマールと続き、石油の富は王家とその王族たちが独占している。

「アラブの大富豪」とは、「王族たち」とほぼ同義語である。アラブ産油国の王族は、日々膨大な富を懐にしており、極端に言えば、王族の財布と国家の財布はほとんど区別できない。彼ら王族の所有する富の規模とその運用実態は、厚いベールに包まれている。

1970年代の私達には、2度のオイル・ショックがあり、にわか成金になった彼らは、その富を湯水のように濫費した。現在、彼らには再びオイル・ブームが訪れた。彼らはお金の使い方を考え、単なる散財とは違って、企業買収や不動産開発に投資している。(散財としか言いようのないものもあるが。)

アラブ産油国には、所得税がなく、医療費や教育費も無料、食料品も驚くほど安く、ガソリンも日本の1/5以下で、見かけ以上の豊さである。社会インフラが整備され、国民の生活もモノ余りの状態であり、国家と個人の双方に金が溜まっている。

膨大なオイル・マネーを抱えるカタル、アラビア首長国連邦(UAE)は、ある調査結果によると自国民の一人当たりのGDPは、日本の4倍から5倍である。それ以外の産油国の豊かさも、程度の差はあれ同じで金持ちである。
         豊か過ぎる社会
このような"豊か過ぎる社会"について考えさせられました。うらやましい反面、アラブ産油国の最大の問題が見え隠れします。

こんなに富を持っているのならば、世界のために貧しい国のために役立つ何かをしたら素晴らしいだろうと思います。豊かな社会というのは、目に見えるものが豊かであることです。モノが豊かであり、便利で居心地の良い生活ができます。

モノに依存する生活ですから、そこに飽きてきますと次の欲望へと発展していき、心を育てることがいつのまにか置き去りにされます。生まれたときから豊かな生活に慣れて育ちますと、自分で自らの道を切り開いていく向上心、忍耐力や克己心を育てることが難しくなるのです。

現代の日本の社会に、それを見ることです。豊かなモノを活用することはあっても、目に見える次元に自分の希望や拠り所を置くのではなく、目に見えない心を養い育てることに力を注ぐべきことを考えさせられました。パウロのこの言葉を思い起こします。

「私は、貧しさの中で過ごす道も知っており、また、豊かさの中で生きる道も知っている。満たされていることにも、飢えることにも、富むことにも、貧しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている。」(ピリピ 4:12 現代訳)
         
2008年8月21日    小坂圭吾

2008年8月12日火曜日

喜び 「夢を持つ」

北京オリンピック北京オリンピックが始まりました。開会式の一糸乱れぬ整然とした演技に始まり、日々、興奮と感動を与えてくれています。オリンピック選手たちは、夢と希望を持ち、4年に一度しかないオリンピックに向け、具体的な目標に向かって大変なトレーニングに励み大会に臨んでいます。昨日は、北島康介選手(25)が男子100メートル平泳ぎ決勝で世界新を出し2大会連続の金メダルを獲得しました。金メダルを取った前回は「チョー気持ちいい」のコメントでしたが、今回はテレビカメラの前に立ち、タオルで顔をぬぐいましたが、しばらくタオルを顔に押し付けたまま動かず、目に涙で10秒近く声が出てきません。「―――すいません。何も言えない。―――最高っすね。」止まらない涙をふきながら、一言ひと言を区切るよう話してくれました。超人と言われる北島選手ですが、挫折や故障、いくつもの逆境を乗り越えてきたのです。彼の乗り越えてきたプロセスを見ますと、まず素直に努力する姿勢が挙げられます。そして、子供たちと一緒に泳ぎ水泳の基本を教える中で、子供たちからパワーをもらっている姿が浮かんできます。挫折や故障がある中で、子供たちから最高の元気をもらって感動し、復調したことが伺われます。金、そして世界新―――という夢と希望をもち具体的な目標を実現し涙した北島選手、私たちにも興奮と感動を与えてくれました。

       夢がある者には? 夢、希望、目標について、もう10数年前になりますがうまくまとめた1枚のものを入手しました。どなたがまとめたかは不詳です。
      夢
 夢がある者は、希望がある。  希望がある者は、目標がある。
 目標がある者は、計画がある。 計画がある者は、行動がある。
 行動がある者は、実績がある。 実績がある者は、反省がある。
 反省がある者は、進歩がある。 進歩がある者は、夢がある。  
 
実に素晴らしいサイクルになっています。一般によく言われる“PLAN→DO→CHECK→ACTION”というPDCAのサイクルになっています。この考え方は、仕事ばかりでなく、個人についても何か実現していく際に使える考え方です。ここで、夢はビジョンに、希望は目的と言い換えてもいいでしょう。ここでいう夢とは、“将来実現させたいと思っている望み”のことです。夢よりも希望、希望よりも目標のほうが、すぐに実現が可能なこと、具体的な事柄ということができます。オリンピック選手たちの努力、節制を見るときに、彼らの目標は明確で、それに向かって一生懸命走ります。厳しい自己訓練をし、無駄な事を排除し栄冠を勝ち取るためにやるのです。パウロの生き方について、次の聖書の御言葉が思い起こされます。

「優勝するためには、あらゆる努力を払って節制する。地上の競技においてそうするのなら、まして、天国の競技である信仰生活においては、なおさらではないか。だから、私は目標の分からないような走り方をしないし、無駄なことは一切しない。私は、競技の選手のように、厳しい自己訓練をする。」(コリントⅠ 9:25-27 現代訳)

私たちは、天国に向かって走っている者ですが、何と無駄なことが多いことでしょうか?もっとシンプルな生活をするようにとの教えは、ズシンと来るものがあります。

2008年8月12日    小坂圭吾

2008年8月2日土曜日

祈り 「孫に教えられる」

幼少の思い出暑い夏になると、幼少の頃(岡山・備前生まれです)の楽しい思い出が、次々に浮かんできます。小学校のとき、近くの川での水遊びや瀬戸内海の小さな島に臨海学校で宿泊(今思えば、先生方は大変でした!)、兄と二人で岡山の瀬戸内海岸の知り合いの家に1週間ほど寝泊りして海水浴(よくぞ両親が出してくれたものです!)等々、なんとも楽しいうれしい思い出がいっぱいです。田舎のガキ大将だった私は、先生に褒められもしましたが、みっちり叱られた思い出があり、旧家でしたので祖父(じじ)や両親にしっかりとしつけられました。学校の先生には、悪いことが見つかり、関係者一同(約10人)整列させられ叱られました。母には1対1で悪かったことをトクトクと諭されたこと、父や祖父には、あるときは蔵の中に入れられたり、夕方門の外に出されたこと(お寺にあるような古い門構えです)や正座して行儀を教えられたこと等、なぜ叱られたかはほとんど覚えております。全て良い思い出としてあるのは、叱り方、しつけ方が良かったのであろうと感謝をしています。

       孫に接して子供も独立した現在、3人の孫(男、女、男)のしつけについて考えることが多くなりました。一番上が小学校2年生男の子ですが、じじ、ばばの役目は、小さいころに良い思い出を作ってやることであると思っています。日ごろ孫たちを見ていますと、孫3人3様の性格で、男の子と女の子はこんなにも違うのかと思わされます。親であったときはそんなことよりも子育てに一生懸命、精いっぱいです。じじ、ばばだからこそ冷静に見ることが出来ます。一人ひとりを見ていますと、個性的な性格が浮き彫りに出てきます。色々なことに興味をもつ(特に物に対して)、自己主張が強い、納得しないと動かない、子供とは思えないほど理屈で色々と言ってくる、自己中心、自分の気に入らないとわがままが出てくる等々ですが、もちろん良いところも沢山あります。親は、子育てをどうしたらよいかと日夜悩み、研究しながら進めています。
        孫に教えられる
先日、長男家族郎党と共に1泊2日で房総に海水浴に行きました。一緒に2日間ともに過ごし、楽しい時を持ちましたが、孫たちの様子に色々と考えさせられました。家内と話し合い色々と考えている中で、この孫たちの姿は、実は私たち大人の姿そのものと本質は何も違ってないと分かってきました。暑い真夏日が続くと「暑い暑い!」と文句を言い、夕立が来て一気に涼しくなり感謝もあるが「寒い!」と文句を言う。家内が作った料理に「うまい!」と言いつつも、ちょっと味付けがうす味だと「ちょっとまずいな!」と言ってしまう。クーラーが利きすぎだ、孫が来てうれしくもあるが、これはだめとつい口が出る等々、要するに私たちも自己中心、わがままなのです。

例えば、こんなことがありますね。夕方、一家の主人が仕事から帰ってくると、夫が疲れていることを気にもせずに、妻がその日の起こったことを言いたくて矢継ぎ早に吐き出してくる。これは、留守番をしていた子供が、お母さんが帰ってくるや自分の関心事をお母さんにぶつける姿とまったく同じです。多かれ少なかれ、子供や孫の姿は私たちの姿であり、自己中心的な姿は、罪びとの姿そのもの、じじ、ばばの姿と同じだとわかってきました。孫の教育は共に学んでいくのだと悟って、何か少しほっとしています。私たちもやっと、じじ・ばばの役割・入門篇を学びつつあるのかなと思わされています。

「子供をその成長過程で正しく教育しなさい。そうすれば、年老いても、そこから離れない。」 (箴言 22:6 現代訳)
「子供を懲らしめることを、差し控えてならない。ーーーーー もしも子供を懲らしめるなら、  その魂を滅びから救うことが出来る。」   (箴言 23:13-14 現代訳)
 
2008年8月2日    小坂圭吾