2011年9月23日金曜日

喜び 「片づける(2)」

     暑さ寒さも彼岸まで
今年の残暑は、厳しい日が続きましたが、やっと秋分の日(923日)を迎えました。「暑さ寒さも彼岸(ひがん)まで」という言葉をご存知ですか。先日、若い人に聞きましたら、あまり知らないとのこと。この意味は、「冬の寒さ(余寒)は春分(321日)頃まで、夏の暑さ(残暑)は秋分(923日)頃までには和らぎ、凌ぎやすくなる」という意味です。日本の慣用句ですが、季節感と共に確かにそのように暑さ寒さが凌ぎやすくなり、的を射ているなと思わされます。今年も、そのようになってホッとしますね。

ところで、今年の夏は、節電対策で扇風機を使った方も多かったことでしょう。我が家も扇風機には、例年以上に活躍してもらいました。2か月も使用しますと扇風機の羽にホコリがたまってきます。例年ですと、扇風機をしまって暖房器具を出す時、掃除をすることで事足りていました。今年は、扇風機が大活躍をしたためホコリがついて、途中で掃除をせざるを得ませんでした。やはり、片づけや掃除はこまめにやる几帳面さが要求されるようです。
                                                                                     
       机の片づけ
 皆さんの机の上は、きれいですか?机の中はどうでしょうか?机の上が物置になっている方も時々見かけますね。私の机の上には、パソコン、本立て、ペン立て、スタンド以外は置かないように心掛けています。もちろん、仕事をするとき色々な資料を持って来て、目いっぱい広げることもあります。先週は、珍しくいろいろと必用な物を持ち込んで、机・床・台の上に並べて戦線拡大もいいところ。こんなに広げてやることは多くはありません。しかし、その日の終わりには、「今日はここまで!」と区切りをつけて片づけをして、机の上はキレイにします。机の上は作業をする所なので、極力モノを置かないようにしています。

整理整頓とは、まずは物を減らすこと、そして使いやすく配置をすることです。前者が整理であり、後者が整頓になるのです。不要なものが多いと整頓は難しくなります。こうすることによって、机の上、中、キャビネット、棚、本棚、押入れもきれいに片付いてくることでしょう。日頃からこまめに整理整頓に心がけることです。
                                                                                  
       旅行と写真の整理
多くの方が苦手であろう“旅行と写真の整理”について、お話しましょう。私も“下手(へた)の横好き”と言って、コンパクトカメラで何か良いネタがあると写真を撮りまくります。その後ですぐに、画像を見て不要なものはどんどん消していくのです。したがって、パソコンに保存する段階では、おおむね半分に減っています。さらに、パソコンの画面で見て、23割は削りますので、撮影段階から見れば20-30%に減っていることでしょう。保存の時には、年月と主要なテーマを入れてファイル名にしています。プリントするのは、その中で数枚でしょうか。それが写真帳に年代順に入れてあります。


旅行に関しては、国内、海外に分けて旅行ごとの資料をしっかりとファイルし、写真の中でこれは思うものを写真帳に入れて、詳しくはパソコンにありますので、いつでも開くことが出来ます。これは、経営コンサルタント・大前研一がそのノウハウを披露してくれたのに倣って、小坂流に工夫をしています。彼は、旅は記憶するだけでなく、記録に残しておくことが大変な玉手箱になると勧めています。彼に触発され、旅行の整理がぐっと良くなりました。

整理整頓された旅行のファイルや写真をひも解くと、旅の記憶ばかりか自分の人生の過去の旅路にさかのぼることが出来、いろいろなことが一瞬にして脳裏によみがえってきます。1枚の写真からよみがえってくる人生の旅路を味わうことも、整理整頓、片づけの楽しい一面ではないでしょうか。楽しく整理整頓をしましょう。整理整頓の極意は、ほんとに必要なものは何かを考えることです。必要なものでも、使う頻度(毎日、週に一度、月に一度等々)も良く考えて配置することです。片付けは、人生における様々な場面での優先順位を考えることと同じようなことが大いにあると思わされます。人生の片づけ術の腕を、さらに磨きたいものです。

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」(ルカ 10:41)

2011年9月23日    小坂圭吾

2011年8月17日水曜日

喜び 「片づける(1)」

        断捨離
 
今年の始めごろ、妻から「断捨離(だん、しゃ、り)」という言葉を知っているかと尋ねられました。聞いたことのない言葉で、ある切り抜きを渡されました。読んでみますと「これは面白い」と感じ、さっそくインターネットで調べますと、今注目されているとのこと。皆さんは、ご存知でしたか?最近、あちらこちらで見かけるようになりました。
  ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方から来ているとのことで、10年ほど前、金沢市に住む主婦が提唱し、ブログを通して広がったとのことです。「断捨離」は、不要なモノを断ち、捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽で快適な生活を手に入れようというものです。モノも情報もあふれかえっている現代。ともすれば、安いからと必要もないものを買い集め、捨てることもできずにいる自分。次から次へと流れてくる情報に右往左往している自分。そんな生き方に対して、不必要なものを捨てるというプロセスを積み重ねると、身の回りをスッキリさせることが出来、自分の心をも整理して行くことが出来るというものです。現代は、“いらないものをいかに捨てるかという知恵”こそが、必要な気がします。

     人生の片づけ術
  このことで思い出すのは、あの「坂の上の雲」に出てくる秋山好古の生き方です。彼は、実にシンプルな考え方、生活態度で生き抜いた人だったと思います。NHKテレビでの放映を見て刺激され、「坂の上の雲」を読み始めました。単行本は全部で8巻、いま6巻まで読み終えました。NHKテレビでの放映が終了するころには、読む方も完了したいと思います。
 ところで、わかりやすく言えば“片づけ”ですが、私もいつの間にか“片づけ上手な一人”になりました。大袈裟に言えば、人生の片づけ術ですね。世の中には、片づけコンサルタントも出て来ています。事務所はもちろん、家、書斎、物置もきれいに片づいています。妻も私に影響されて、片付けがかなり上手になったように思います。私の片づけ上手はいつごろかな?と、これを書きながら思い出してみました。それは、母の影響が大であったと思われます。実家は、それはもうきれいに片づいていましたし、母の片づけや掃除をしていた姿が目に焼きついています。どこを開けても整然としていました。祖父がきれい好きっだので、その影響も大きかったようです。ビジネスをするようになって、片付けの上手な身近の先輩を見ながら、少しづつ腕を磨いてきたように感じます。

        身のまわりの片づけ
 毎日の煩雑な生活の中で、片づけをしなければならないことが次々に起こってきます。先月でしたが、ふと時間が出来ましたので、不要なものを少し整理でもしようと思い立ちました。やってみるとほとんど片づいていて、捨てるもの、整理することもあまりありません。それよりも、大事にしている物をもっと活用しようと思い立ちました。やはり、忘れてそのままになっている物があるものです。

  “片付けの極意は何か?”と問われれば、物をすぐに分けて整理することです。必要なものと不要なものを分けて、不要と分類したものは、捨てるべき箱に入れます。期限が来れば処分をします。すぐに捨てるかどうかを迷うことがありますが、その場合は、一時置き場の箱に入れます。1-2週間後に見直しすれば、簡単に必要、不要を決めることが出来ます。寝かすことの重要さがここにもあります。
  必要と決めたものは、整理整頓をしてありますので、必要なキャビネット、本棚、ファイルに入れます。入れる際に目に触れた過去のもので、もういらないと即座にわかる時があります。それは取り出して、廃棄します。もし時間があれば、ついでにそのファイルやキャビネット、本棚を整理整頓してしまいます。要は、不要なものを減らす努力をついでにするのです。ほんの少しの時間を使ってやるのです。片づかない人の多くは、そのときそのとき片づけをしないで、後からしようとしますので片づきません。「仕事の出来る人は、片づけも上手である」いや「片づけの上手な人は、仕事も出来るようになる」と言いきってしまっていいかもしれません。片づけをうまくやれば、仕事もはかどることは確かです。

 「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。」(ルカ 10:41)

2011年8月17日    小坂圭吾

2011年7月20日水曜日

祈り 「失敗につきあう」

     びわの収穫
我が家の庭には、少し大きな“びわの木”があります。もう20年ほど前になるでしょうか、私の教会の牧師夫人が小さな苗を持って来て下さいました。「このびわの木の葉は、病気やけがの治療にとても有効だから、ぜひ大切に育ててくださいね。」あまり手間もかけることもなく大きくなり、その葉には、今までに病気やけがの治療に何度もお世話になりました。残念なことに、びわの実はほとんど収穫できませんでした。それが今年は大収穫で、これには驚きました。
  最初の収穫を、小学校2年生の孫(女の子に)に木に登らせて30個ほど取りました。翌週には、小学校5年生の孫(男の子)に同じく30個ちぎってもらいました。その後も2回ほどに分けてもぎ取り、全部で100個余りの収穫でした。びわの実は、種が大きくて嫌いな人も多いようです。どれほどの栄養素があるのかを調べると、意外にもいろいろと栄養素があり、葉だけでなく実も貴重な果物だとわかりました。

     木から落ちる
 孫たちにやってもらったびわの収穫について、後で、少し反省をしました。それは、木から落ちてけがをしないようにと、いろいろと準備や注意をしながらやらせたことです。それよりも、「びわを取ってくれるかな?」と言って自由にやらせたら面白かっただろうと思ったのです。私が事前に梯子をかけたり、ここから登ればいいよと教えたりお膳立てをしないで、孫に試行錯誤させたら良かっただろうと思ったのです。もしかして、枝の1本折れるか、木から落ちることもあるかもしれませんが、怪我をしてもたかが“かすり傷”くらいでしょう。
 ほんの些細な出来事ですが、失敗やけがをしないようにお膳立てをしたり道筋をつけたりと、知らず知らずのうちに、「失敗から学ぶ」ことを忘れている自分に気が付きました。「失敗しない」ように出来るだけ効率よく、スムースに事が運ぶようにとの考えが走ってしまいます。私たちの子供の頃は、遊んでいて“かすり傷”は絶えることが無く、足を見るとその傷跡がいくつか残っています。孫に対する教育現場と捉えるならば、もっとおおらかに失敗もさせて良かったのではないでしょうか。

      失敗とつき合う
  私たちは、誰でも失敗しますし、時にはかなり深刻な場合もあります。「失敗は成功の母」という言葉がありますが、人が成長するうえで特に必要な経験をしなければならない失敗があり、これは“良い失敗”ということが出来るでしょう。この失敗は、成長のためにはどんどん経験するべきでしょう。経験する必要のない「悪い失敗」もあります。良い失敗に含まれない失敗は、すべて「悪い失敗」です。大きな罪を犯して、人生における深刻な失敗になることは避けるべき事と思います。それは別としても、神様を信じる私たちにとって、一見して悪い失敗と思うことも、やはり“成功の母”となりうることを知っています。その面では、何も学ぶことが出来ないような悪い失敗は、避けるべきですが、失敗に出来るだけ上手に付き合うことも大切です。人生経験を積むとは、失敗を通して自分なりの良いものを発見して、成長することを指しています。
 
  ある時、若い男性がある試験に失敗しました。今まで失敗らしい失敗、ましてや試験に落ちる経験はしたことが無い、ある意味で順調な歩みをしてきた彼でした。何年もかけて準備をし、何段階もある試験の途中で不合格になりました。まさか、この途中の段階で落とされようとは思いもかけず、彼は、さすがに落ち込みました。私は、どのように言うのが良いか「何か言ってあげなくては!」と思ったのですが、不合格になって落ち込んだことの共感をのみ伝え、忍耐して待つことにしました。若い彼にとっては、それは良い経験をしていると考えたからです。まさに“良い失敗”をしたのです。彼は、その失敗原因を考え、目標を立て直し再出発する時です。この失敗と上手につきあってほしいと祈りました。私たちは、失敗に落ち込んで弱くなっている時にこそ、主の力によって強くされるのです。

「私が弱い時にこそ、私はキリストの力によって強くなることが出来るからである。」(コリントⅡ 12:10 現代訳)

2011年7月20日    小坂圭吾

2011年6月20日月曜日

今を生きる 「失敗から学ぶ」

     みんなで支えあう                             
 東日本大震災から3か月が経過しました。この震災で“日本人の何かが変わった!”と私たちは感じていますが、それは、日本人の持つ良い面があらわになっているのかもしれません。震災後の私たちの行動を見ると、日本人が都市化され変わってきたと言われながらも、いざという時は「みんなで支えあう、持ち合う」という生き方の良い面がみられました。被災地で暴動や略奪もなく、食べるものがほとんどない時みんなで静かに列を作って待つという姿は、外国では考えられないと驚かれました。この姿は、阪神大震災の時にも見られたことです。           
 一方で、「みんなで一緒に」の考え方は、弱い一面もあります。原発事故に対する機敏な対応が見られないのがその一端ともいえるでしょうか。日本政府および東京電力の対応の遅さ、危機管理の無さは、残念な限りです。その中にあって、原発事故の収束に向けて日夜戦って下さっている原発所内の方々の献身的な働きを忘れてはなりません。全世界が見つめている“フクシマ”には、祈りの支援が必要です。被災という絶望に向きあって戦う東北の方々のために、私たちも忍耐強く支援を続けていきたいものです

     失敗の研究
  このような中で、実に注目すべくニュースがあります。先月24日日本政府は、東京電力福島第一原子力発電所・事故調査委員会の委員長に「失敗学」を提唱する畑村洋太郎・東大名誉教授(70)の起用を決めました。事故調査委員会は、ほかに法律や地震の専門家ら約10人で構成され、年内に中間報告をまとめ、来夏にも最終報告を出すとの方針です。              
  日本の政治、行政の見られる欠陥は、責任の所在のあいまいさ、場当たり的な対応、正確な情報を出し渋る体質、過去の「失敗の研究」の欠如---等々があげられます。これは何も今に始まったことではなく、戦前戦後を通じて、“日本の失敗”ともいうべきことです。原発事故に対しては、失敗の原因を究明しその情報を共有化することが重要です。

  失敗学は、1990年代半ば、失敗の原因を分析し再発をいかに防止するかを体系的にまとめてその基礎が作られたと言われています。それをさかのぼる10数年前、私は、大手メーカーの企業教育に携わっていました。その時、「KT法:論理的問題解決の手法」を使って、企業の物つくりにおけるトラブルの原因究明そして対策作り、再発防止をする教育に奔走しました。そのような中、「失敗学」なるものが提唱され、大手企業の中では当然のこととしてやっていましたが、学問的にまとめられることは素晴らしいことだと感じたものです。
  畑村洋太郎名誉教授は、「9世紀の昔に起こった大規模な貞観(じょうがん)地震は、ほぼ忘れられていた。加えて、人間は都合の悪いことは考えない習性があり、取り返しのつかないことの原因になる。今回、それらが重なって防災対策で不幸な結果につながった。」ぜひとも100年後の評価に耐えられる中身になることを期待しましょう。
     
     口で失敗しないように
  失敗についてわが身のことを振り返ってみますと、大きい小さいは別にしてとにかく失敗だらけの人生ということになるでしょうか?仕事の中で、対人関係の中で、親子関係の中で、夫婦関係の中で、勉強の中で、スポーツをしていてもそうです。忘れてしまっていた、勘違いをした、つい手が滑ってしまった等々小さな失敗、ミスは、私たちには事欠きません。
  失敗はすることによって次につながる良い面もあり、全てが悪いとは考えません。このような中で、一番失敗が多く何とか制御したいのが口ではないでしょうか?「口は災いのもと」ということわざを出すまでもありません。舌は、もろ刃の剣で、命を与える舌もあれば、死をもたらす舌にもなりえます。平和か争いか、理解か誤解か、建設か破壊かー。こうして書きながら、少し前のある光景を思い出します。「言っていることが間違いではないが、もう少し言葉を選ぶべきではなかったか。口数が多く、舌の制御が足りなかったな!」若いころから、言葉には注意をするように教えられてきましたが、一層の制御が必要だと感じているこのごろです。

「私たちはだれでも皆、多くの失敗をする。もし言葉の上で失敗しない人があったら、あらゆる点で自分を制御できる立派な人である。」(ヤコブ3:2 現代訳)

2011年6月20日     小坂圭吾

2011年5月16日月曜日

今を生きる 「原発事故は、想定外のことですか?」

     想定外のこと?
  東日本大震災で福島原発事故が起こり、「想定外のことが発生した」との話を何度も聞かされました。これを聞いて「何を今さらそんなことを言うの?リーダーならリーダーらしく、科学者なら科学者らしく素直に認めたらどうなの?心から謝罪でもしたらどうか!」と厳しいですが、私は感じました。
 
 専門家は、1000年以上前の平安時代にこの地域が広範に浸水した大津波を予測し、福島第一原発の想定津波の見直しを迫っていました。国会でも、原子炉冷却システムが機能しなくなる恐れがあることが指摘されながら何もしなかったのです。原発事故が起きてわかったことは、リスク分散がきわめて不十分でした。どこかが機能不全になれば他で補えるようにバックアップをして万全を期しておくのですが、この原子力発電所の場合、お粗末限りなしの状況でした。
 
     イエスの十字架と復活
  この東日本大震災からしばらくしてイースター(復活祭)があり、まもなくペンテコステ(五旬祭)の日が巡ってきます。この季節にイエス・キリストの十字架と復活を思いながら、「想定外のこと」について思い巡らしました。「イエス様が、十字架にかかられることは想定外でした。ですから、十字架にかかられるときに思わず逃げ出したのです。」とは、弟子たちは言いませんでした。イエスは何度も「私はやがて十字架にかかる」と言われ続けましたので、弟子たちは、十分すぎるほど知っていました。イエスが、総督ピラトの裁判にかかり十字架刑に処せられるとわかると、弟子たちの多くは、恐ろしくなって逃げてしまいました。これが私たちの姿でもあります。
 
 十字架にかけられたイエスが、3日目に復活されます。女の弟子たちは、イエスの葬られた墓に行くとそこは空でしたが、御使いの話を聞き、イエスがよみがえられたことを信じます。それを男の弟子たちに話しますが、誰も信じてくれません。男の弟子たちは、旧約聖書の話を十分知りつつも、「イエスが復活されるなんて、まさか?」との反応だったのです。想定外とは思いません。ヨハネは、ペテロと一緒に走って行って墓の中の様子を見て、復活されたことを信じます。その後、イエス様がいろいろな場面で顕現されますが、弟子のトマスが最後まで頑固に信じないと言い張ります。彼は知識で想定出来ていても、理解できていなかったがゆえに信じられなかったのです。思えば、私も信仰に入る前、復活について頭で理解できても信じられなかった体験があります。
 
     想定外は、実は想定内
 NHKスペシャル(57日)での東日本大震災についての検証を見ますと、今回の大震災は十分に考えられる事、“想定外ではなくて想定内である”と言えるようです。確かに千年前に起きたであろう三陸沖地震の大きさに匹敵する規模でした。原発事故について「想定外」との言葉は、責任回避以外の何物でもありません。歴史は繰り返す!私たちも、想定外と言って責任回避という同じ過ちを犯しがちなものです。過ちを素直に認めようとしない自分があります。素直に現実を認めて、間違いを素直に受け入れていくところから、新しい力が湧き出て来るように思います。
 
 このような大災害は「信じられない」というのが素直な気持ちではあります。日本ハムのトレイ・ヒルマン元監督が、日本ハムが日本シリーズに優勝した時に「信じられない!」と叫んだことは有名です。彼にとっては、優勝は想定外だったかもしれませんが、そのようなことが起こるのは神様にとっては想定内であり、だから自分にとっては信じられないと言われたのだと思うのです。すべての事柄は、主なる神様の支配下にあり、神様にとっては全てが想定内です。その神を信じる私たちは、想定外のことも想定内として受け止めるところから、主よりの新しい力をいただくことが出来るのです。そして、歴史に学ぶ者となりたいと思います。

「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の書1:9)

2011年5月16日    小坂圭吾