江戸・明暦の大火
一昨日は、“シニアクリスチャンいきいきネットワーク”の会があり、健康ウオーキング:江戸城内(皇居東御苑・北の丸公園)散策を実施しました。東日本大震災で福島県から避難して来られた方(私たちの教会も避難所として提供させていただいています)も参加してくださいました。2時間半約6KMのコースを作り、先導と江戸城の歴史を紹介する役割もあって、少しばかり歴史の下調べをしました。天気も快晴に恵まれ、八重桜やしだれ桜、木々も若葉を出し始めて元気と癒しを与えられました。
その中で、1657年1月の江戸・明暦の大火(振り袖火事)には、驚きました。この火事は、江戸全市の6割、4万8千戸を焼き、10万7千人が死ぬ空前絶後の大災害です。この時の江戸城は、寛永十五年(1638年)三代将軍家光のときに高さ51メートル、五層の天守閣が完成し日本一を誇っていましたが、19年後の明暦3年(1657年)に大火で跡形もなく焼失しました。2日間に及んだ火事は、江戸の町を焦土と化したのです。
焼失した翌年、天守台だけがまず修復されましたが、天守閣建設は延期され再建されることはありませんでした。幕府の重臣で四代将軍家綱の叔父にあたる保科正之の提言「戦国の世の象徴ともいえる天守閣は、もはや時代遅れで物見のためだけしか用をなさず、それより城下の復興を優先させるべきだ」により、江戸城に蓄えられていた金銀は、大名屋敷の移転や広小路の城下の復興につかわれたのです。
当時、江戸時代初期の日本人口は、約1400万人、江戸の人口は約50万人くらいであろうと思われます。(しっかりしたデータがなく、穏当であろう数字を使用)その中での死者10万人余の災害たるや空前絶後と言わざるを得ません。我々の祖先は、それを見事に乗り越えてきましたが、今回の東日本大震災も、「我々は必ず乗り越えることが出来る!」と皆さんで声を大に叫びました。日本政府は、無駄なばらまき予算のカット(高速道路無料化、高校授業料無償化、子供手当てなど)や特別会計の剰余金10兆円を使って、即復興に充ててほしいものです。
先人の石碑
2011年3月11日、マグニチュード9.0の巨大地震と大津波が襲った東日本大震災、発生から40日になります。いろいろなニュースや新聞記事の中で、一番印象に残り忘れられないのが、3月30日の読売新聞朝刊のこの記事です。
「此処より下に家を建てるな」――。巨大地震で沿岸部が津波にのまれた岩手県宮古市重(おもえ)半島東端の姉吉地区(12世帯40人)では、全ての家屋が被害を免れた。この 昭和三陸大津波の後、住民たちは海抜約60メートルの場所に石碑を建立。
この石碑は、昭和大津波で壊滅的な被害を受けた直後に建立され、子孫に厳しく伝えられたものです。地震が起きた日(3月11日)には、港にいた人々は、大津波の警報が発令されると、高台にある家を目指して約800メートルある坂道を駆け上がった由。巨大な波は、漁船もろとも押し寄せるも、その勢いは、石碑の約50メートル手前で止まったのです。その後の調査で、この重茂(おもえ)半島での津波は、38.9メートルの高さまで達していたことが分かり、斜面を駆けあがった津波の遡上高としては、明治三陸地震の記録を抜くことが確認されています。
風化させない
先日、NHKニュースで復興に向けての取り組みが放送されていました。かつての教訓で“ここより下は、津波が来たので家を建てるのはダメだ”と言われながらも、月日が経つとそれが風化し、そこに建てた多くの家屋がすべて大津波で流されている現実を見ました。まさに“先人が残した石碑、集落を救う!”この記事の見出しが光っていました。大切なことは記録に残し、風化してしまわぬように子供に孫の代に言い伝えることを強く教えられます。無駄な繰り返しをしないように、誰も知らないと言うことが無いように心がけたいと思います。
「すべてはむなしい反復を繰り返すに過ぎない。歴史は繰り返し、この地上に全く新しいものは無い。」(伝道者の書1:8-9 現代訳)
2011年4月19日 小坂圭吾