2010年9月13日月曜日

健康余話 「断食をする」

     人間の寿命は125歳まで 
現代の医学では、人間の寿命は、遺伝子に125歳までプログラムされていると考えられています。現実には、その寿命が来る前に体の老化が進み、病気にかかって死んでしまいます。日本の3大死因は、がん、心筋梗塞(心臓関係)、脳卒中だそうです。明治大正期の首相で早稲田大学の創立者である大隈重信は、大言壮語で晩年まで意気軒昂(けんこう)。「ワシは125歳まで生きるつもりだ。なぜかといえば、動物は己の成長期の5倍は生きる。」大風呂敷の好きな彼の持論でしたが、結局83歳でなくなりました。
平均寿命が80歳といわれる時代ですが、仕事に費やした時間と、定年後に使える時間がほぼ等しいといわれます。ですから、定年近くになり、それまで仕事を通して養われた経験、知見からして、何か役立つことを探し求める。会社生活の時代に考える余裕の無かった心のよりどころを求め、宗教に思いをはせる。私たち日本人の宗教心といえば、「何事のおわしますかは知らねども、忝さ(かたじけなさ)に涙こぼるる」の歌心が、日本人の根底にあると言われます。多くの日本人は仏教行事にかかわり、家庭には仏壇があり、神社や仏閣があれば手を合わせるという、そのような環境で育ってきています。学校時代は、ミッションスクールであったという方も多く、チャペルでの礼拝や聖書講義を聴いて卒業しています。キリスト教への理解と関心は、必ずしも深まっていないかもしれません。定年後になって、日本的なものを身につけた中で、生きた創造主を求めてそれを見出す!それは、私たちの思いをはるかに越えた素晴らしい事柄です。

     最高の医者にかかる
中高年になりますと、心のよりどころを求めると共に、健康のことが最大の関心事になります。若い頃から、健康に留意することは重要なことなのですが、どうもそのように気をつけないのが我々の姿のようです。古今東西において、神さまが、私たち人間の健康のために与えてくださった最高の医者、それが何と二人もいます。一人は熱であり、もう一人は断食です。 
“発熱”は、誰にとっても一種の体における警告信号で、かつ絶妙な癒し手でもあります。私の妻は、普段元気ですが、忘れた頃(10数年に一度くらいでしょうか?)風邪で熱を出して寝込むことがあります。そのときには、医者にも行かず、薬も使わず、時間がかかってもあわてず、そのまま寝て休んでいます。「風邪薬を飲んだらどうか?」「少し長引いているので、医者にでも行ったらどうか?」と尋ねてもまったく受け付けてくれません。そして、4日も寝れば間違いなく直ります。(私は、このまねは全く出来ず、買い置きの薬を飲んでしまいます。)発熱には、それなりの訳があり、同時にその病気を治す力もあると言われます。医者に行けば、昔ならば「安静にして寝ていれば、大丈夫!」と言って元気つけてくれたように思いますが、昨今の医者は誰も言わないことでしょう。必ず薬を処方してくれ、多すぎる薬を出すのには、やや腹立たしく思うことがあります。(何も風邪の場合だけでは、ありませんがー。)
        
     断食をする
もう一人の名医は、“断食”です。断食といえば、病気の治療や癒しに用いられ、体調を整えたり、体重が増えすぎたりで試みられます。かなり前の話ですが、私の兄が、辻堂の断食道場にお世話になった事があります。このことや教会で断食の話を何度となく聞くにつけ、「断食は名医である」と言うのは真理であると、悟るようになりました。
私も、体重が増えすぎますと(そうは言っても常に標準体重内です)、昼食断食することがあります。昨年のクリスマスの時ですが、正月にかけてどうしても食べすぎになりますので、妻と相談し、正月すぎまで、昼食を普段の半分以下あるいは断食しようと実行しました。これにより、体調良く快適に過ごせました。
断食の本格的な体験は、神学校の学びの中で“リトリート(RETREAT:黙想)”と言って、3日間ほど断食をしながら黙想、祈りに専念するカリキュラムに出席しました。水だけというような断食ではなく、韓国から断食用の食材を調達して準備し、重湯のようなものを毎食いただきました。ですから、苦しいとかいう感じはまったくなく、消化する重いものがお腹に入っていないので、しだいに頭がさえてくるように感じられます。奥多摩地方の山中で、静かで涼しく気持ちの良い環境であり、祈りに十分打ち込み、体調も整えられた時間を持ちました。断食して祈るといえば、教会でみんなで「朝食あるいは昼食を抜いて、この事について祈りましょう」という事に、何度も参加したことがあります。
いざとなれば断食して祈る、病気を治すことが必要ですが、普段は、食べ物と食べ過ぎに注意して、体をいつも軽やかにしておくことが、何かにつけて良いのだと思います。時には、1食か2食抜いて祈りに専念することも大切だと、この記事を書きながら思い起こしました。

「ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。」(サムエル記Ⅱ 12:16)

2010年9月13日    小坂圭吾