2026年5月14日木曜日

コーヒーブレイク「AIとキリスト信仰」

わが家の庭に咲く牡丹
 AI(人工知能)に助けられる

この1年ほど、私はAIに何かと助けられています。最近では、100歳を超えた姉をこの5月に慰問しようと考え、その際の贈り物についてAIに相談しました。

いくつかの候補が挙がる中で、「似顔絵」というアイデアがあり、これは自分では思いつきませんでした。数日後、AIは画像処理も得意だと知り、似顔絵を描いてもらうことにしました。

今から8年前の写真を取り出し、“ChatGPT”を使って描いてもらうと、とてもよくできていて驚きました。手書き風や水彩画風など、さまざまなスタイルにも対応できます。

もっと新しい写真でも試しましたが、さすがに100歳に近い頃の写真だけあって、少し年齢を感じさせる仕上がりになりました。

それでも、服装を少し変えてもらうと、さらに素晴らしい作品になり、良いお土産ができました。


AIとの付き合い方

雑誌『プレジデント』(2023630日号)の「ChatGPT仕事術大全」を読み、少しづつAIを使い始めました。

最初は旅行プランを立ててもらいましたが、少し物足りなく感じ、それきりになりました。旅行は私の趣味ですから、自分で考えるほうが満足できるのです。

やがて、ブログ文章の推敲や表現の改善に、補助的に使うようにしました。

意味を勝手に変えられて困ることもありましたが、「最低限の推敲にとどめること」「どこをどう直したかを示すこと」と指示することで、良い補助役になりました。

海外に送る手紙の翻訳や、自分の英文の添削にも非常に役立っています。難しい表現になった時には、「もっと易しく」と頼めばすぐに調整してくれます。

昨年末には、友人から画像処理には“Copilot”が良いと教えられ、年賀状作りに使ってみました。「これは使える」と感じました。

さらに最近では、ChatGPTも絵が上手に描けることが分かり、ChatGPTCopilotGeminiの三つを比較しながら、それぞれの長所と短所を知ることができました。

この一年ほどで、ようやくAIとの付き合い方が少し分かってきた気がします。

AI時代に生きる

AIを使うほど、その便利さを日常の中で実感します。ビジネスの世界では、さらに大きな変化が起きているようです。

脳科学者の茂木健一郎さんは、「ChatGPT100年に一度の衝撃」と語り、この未来の技術に本気で向き合う必要を説いています。

今年2月の『讀賣新聞』には、弁護士業務におけるAI活用の事例も紹介されていました。「ここはAIに任せ、ここからは弁護士に」という役割分担が、今後ますます明確になっていくのでしょう。


AIはさまざまな分野で活用され、業務の効率化に大きく貢献しています。私たちの生活をより豊かにしてくれる可能性もあります。

私自身も、少しずつ試す中で、「なるほど、これは使える」と感じることが増え、助けられる場面が多くなりました。

AI時代とキリスト信仰

AIの便利さに驚く一方で、改めて感じることがあります。それは、AIを使うのは私たち人間であり、聖書が語るように、罪を持つ存在だということです。

ですから、AIがもたらすものが必ずしも良いことばかりとは限りません。悪用される可能性もあります。

この数年続くウクライナ戦争、またアメリカ・イスラエルとイランとの対立の中でも、戦略の立案や兵器(ミサイルやドローン)の運用にAIが活用されていると報じられています。

AI技術の優劣が、戦争の行方にまで影響する時代になっているのでしょうか。

AIがますます高度で完全なものへと近づく一方で、それを使う人間は不完全であり、罪人にすぎません。AIは驚くべき力を持っていますが、あくまでも人間が生み出した「道具」です。

人の心を真に導き、善悪を示し、希望を与えることができるのは、神のことばだけです。どれほど技術が進んでも、人間そのものが救われるわけではありません。

「主を畏れることが知恵の初めであり、聖い神を知ることが英知である。」(箴言9:10 現代訳)

「あなたの御言葉は、私の足を導くともし火、私の道を照らす光です。」(詩篇119:105 現代訳)

AIという新しい時代にあって、私たちは神を畏れることから始まる真の知恵を忘れてはならないと思います。

技術に助けられつつも、最後に拠り頼むべきお方は、やはり天地を造られた神であることを覚えていたいものです。

2026514日 小坂圭吾

 

 


2026年4月15日水曜日

人生の目的「神の親友になる」

 

横浜・桜木町~桜満開
朝晩、主に祈る

私たちは、「絶えず祈りなさい」の御言葉に従い、デボーションや家庭礼拝を通して、朝に夕に祈りをささげます。

私たちの人生は、一日一日の積み重ねによって形づくられますが、今日を充実させるためには、始まりと終わりが大切です。

宗教改革者マルチン・ルターは、朝と夜、眠る前に必ず祈るよう教え、ジャン・カルバンも一日に五度以上祈ることを勧めています。

朝一番に祈るときには、神の御言葉を読み、黙想し、「いのちと知恵と平安の恵みを与えてください」と祈ります。夜には、その日に受けた恵みに感謝し、犯してしまった罪を悔い改める祈りをささげます。

旧約時代の信仰の人々は、一日三度祈ったとあります。祈りの人ダビデがその代表です。

初代教会の使徒たちも、この旧約時代の伝統を受け継ぎました。午前九時、昼十二時、午後三時は、当時一般的な祈りの時間でした。

クレメンスやオリゲネスなどの教父たち(1世紀末〜5世紀頃に活躍したキリスト教の指導者・神学者たち)は、一日三度の祈りは当然であると教えています。

信仰の先輩たちの祈りの様子を見ると、長く祈っていることが伝わってきます。これも良いことですが、短い祈りを一日に何度もささげることも、さらに良い方法ではないかと思います。


祈りは呼吸である

神と親しくなるためには、一日三度祈ればよいというものではありません。毎日のデボーションや家庭礼拝の習慣は、とても大切です。

しかし「絶えず祈りなさい」と言われているのは、それだけでなく、一日中「神と会話する」ことが求められているのです。

私は神学校で、「祈りは呼吸をするように、いつでもどんなことでも神に祈ることだ」と教えられ、目が開かれました。

祈りは、私たちの生活の中心であり、神との交わりであり、会話です。聖書を読むことによって神の御声を聞き、祈ることによって神に語りかけ、また聞くのです。

アウグスティヌスは「祈りは魂の呼吸である」と言っています。私たちは意識しなくても呼吸をしています。眠っている間も無意識に行っています。

同じように、祈りも絶えずささげることが大切です。信仰生活は、まさに「祈りの生活」なのです。

このことを教えられてから、私の祈りの生活は大きく変わりました。何かをしようとするとき、すぐに祈るようになりました。

仕事を始めるとき、途中で考え事をしているとき、食事の前、人との会話で失言に気づいたときの悔い改め、昼寝の前、車の運転中、探し物をするとき、寝る前――

もちろんデボーションや家庭礼拝でも祈りますが、このように短くても、その都度祈ることが大切だと思います。

八重桜

絶えず神と語り合う

とにかく、一日中、神さまと会話するのです。

神と親しくなるとは、人生のすべての経験を神と分かち合うことによって築かれます。神との親しい交わりとは、日常の出来事や思いをそのまま神に差し出すことです。

「今こうしていますが、知恵と助けを与えてください」「このように考えましたが、導いてください」「どうしたらよいでしょうか」「感謝します」――このような祈りです。

要するに、短い会話の祈りを一日通して続けることです。

この習慣が身につくと、神の臨在をいつでも覚えることができるようになります。感情ではなく、神が共におられるという事実を覚え続けることが大切です。

御言葉を思い巡らす

祈りとともに欠かせないのが、御言葉の黙想です。御言葉の学びに長い時間を取れなくても、聖句を思い出したり、心の中で暗唱したり、スマートフォンで開いて読んだりすることはできます。

このように御言葉を思い巡らすことが「黙想」です。ある問題を繰り返し考えてしまうことを「思い煩い」と言いますが、「問題」ではなく「御言葉」を繰り返し思うようにすればよいのです。

私たちは思い煩うことに慣れていますが、その意味では黙想する力もすでに持っていると言えるでしょう。

御言葉を思い巡らし、神に語っていただき、そして祈る――御言葉と祈りは一つです。このようにして神に近づき、神との友情を深めていきたいと願います。

「神に近づきなさい。そうすれば、神もあなたがたに近づいてくださる。」(ヤコブ48

2026415日 小坂圭吾


 

2026年3月11日水曜日

人生の目的「すべては神からはじまる」

 

映画「天地創造」

映画「天地創造」を見る

先日、NHKBSプレミアムで映画「天地創造」を数十年ぶりに見ました。かつて確かに見たな、と思いながら見ているうちに、少しずつ思い出してきました。

「天地創造」の最初の出だしは、聖書によれば、このようにあります。

「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(旧約聖書・創世記1:2 新改訳)                  

映画では、聖書に忠実に、その状態を何とか表現しています。           

「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」

と続いていきます。

映画では、これ以降、聖書の記述に従って天地創造の姿を描いていきます。天地創造の七日間、人間の創造と堕落、ノアの洪水、アブラハムの歴史と続いていきます。

特にノアの洪水はなかなかの迫力があり、「そうだったのだろうな」と思いながら鑑賞しました。

人生の目的を求めて

私が大学に入学して間もなく、キリスト教講演会に導かれました。そこで、「人生について考えること、人生の目的を探ることが最も重要なことではないか」と感じ、教会に行くようになりました。

教会に行き、聖書を読み、KGKというクラブ活動にも入りました。私は理工系の学生でしたが、

「科学は万能ではない。神様は本当に存在されるのか。何となくわかるが……。キリスト教と科学は衝突するのではないか。」

と、いろいろと考えながら多くの本を読みました。大学の勉強よりも、こちらの求道のほうが熱心だったかもしれません。

そして自然界や人間を見るにつけ、これが偶然にできたとは、とても説明できないと思うようになりました。

聖書の開巻劈頭(かいかんへきとう)

求道を続けて一年余り、この天地の構造や自然界の現象を観察し、また聖書を読み進めていくにつれて、私はまず天地創造の主が存在することを認めるようになりました。

目に見えない神の存在を、認めざるを得なかったのです。

聖書を読んで、何とも素晴らしい一言が最初に記されています。

「はじめに、神は天と地とを創造された。」(創世記1:1 1955年改訳)
――
これは、私が最初に読んだ聖書です。

しばらくして、尾山令仁著『創世記』の講解書が刊行され、そこには次のようなことが書いてありました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「はじめに神・・・」。なんと厳粛で神秘な響きをもつことばであろう。世界に数多くある書物の中で、最も多くの人々に愛読され、過去何千年のあいだ、多くの人々を高潔な人格に造りかえ、力のない人々を慰め、励まし、光を投じてきた書物。・・・・・

これを他の書物に比べるとき、どれもみなその色を失うほどこれが無比なゆえんは、この聖書が神の著作であり、読む者にひとしく神を仰がせるからである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

無神論の否定

これを読んだとき、まさに天地の造り主を認め、信じた者として、深く感動したことを覚えています。このあとも先生の達筆な文章が続きます。

聖書は序文なしで、私たちを神の御前へと導き、力に満ちた神ご自身を示してくださる。そこには人間はまだ登場せず、ただ時のはじめを画される神がおられるだけである。

神の存在を証明するための議論は、少しも述べられていないのです。

今読んでも、そのときの思いがよみがえります。



この序文なしの宣言は、まさに無神論の否定です。人間が無神論を唱え出したのですが、それよりもはるか以前から神は存在しておられます。

無神論といえば、聖書を徹底的に否定しようとして調べ始めたものの、かえって聖書の真実を裏付ける証拠に出会い、ついには信じざるを得なくなった人がいます。

ルー・ウォーレス(18271905)です。弁護士、州知事、南北戦争時の北軍将軍、政治家としても知られていますが、何より彼の名を世に残したのは歴史小説『ベン・ハー』であり、映画でもとても有名です。

「なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。」
(ヘブル116 1954年改訳)

すべては神による

あらゆるものは神によって創造されました。これは、無からの創造です。聖書の序言であり、聖書のすべての記事と教えは、神の創造に基づいているのです。

そして「神」というヘブル語は複数形ですが、実際には単数として扱われています。この名詞を受ける動詞が単数形なのです。ここに神の単一性と多様性が示されています。

父・子・聖霊としての三位一体の神は、唯一の神の三つの人格として表されています。

「すべてのものは、神によって造られた。だから、神であられるキリストによって造られないものは一つもなかった。」(ヨハネ13 現代訳)

聖書は「はじめに神」と宣言して始まります。この天地が神によって造られ、私たちの人生もまた、神から始まっています。

人生の目的もまた、神を知ることの中にあるのではないでしょうか。今日もまた、神を知り、神と共に生きる生活でありたいと願います。

2026年3月11日 小坂圭吾(東日本大震災から15年、忘れない!)


2026年2月9日月曜日

コーヒーブレイク「脳を老化させない生き方」

 


体の衰え、脳の衰え

毎日、何らかのスポーツ(ウォーキング、ストレッチ、ゴルフ等)や庭仕事をして、体を動かすことを心がけています。

先日、ふと目を閉じて片足立ちを左右で試してみました。1分強もできれば上出来で、それ以上は難しく、「これは鍛える必要があるな」と感じました。

試しに妻にもやってもらうと、私よりも長い時間、片足立ちができました。コロナ禍以前は、妻の方がはるかに歩数が多かったことを思うと、さもありなんという気がします。

年を重ねると、足腰ばかりでなく、脳の衰えも気になるものです。歳を重ねる=体が衰える、脳が衰えると思いがちですが、必ずしもそうではないと、普段から自分に言い聞かせています。

感謝なことに、今でも「若いですね」と言われることがあります。体については、意識して心の持ち方、運動、食事、睡眠に気を配ってきました。

脳が若いかどうかは自分では分かりませんが、脳は「使い方」で若さが保たれる器官だと言われています。このことについて、少し考えてみたいと思います。

自分脳の診断

目を閉じて片足立ちができる時間は56秒ほどです。これは脳の老化のすべてを示すものではありませんが、脳と体の連携の一つの表れと考えることはできそうです。

次は、私自身が感じている「老化のサイン」です。                  ・人の名前が覚えにくい                                ・同時に二つの作業をするのが難しい時がある                       ・外食時、同じメニューを頼みがち                         ・騒音の中で会話や電話がしづらい

私に当てはまるシルバー川柳に、こんなのがあります。                ・探しもの やっと探して 置き忘れ                        ・名が出ない 「あれ」「これ」「それ」で 用を足す

脳を若く保つ努力

私なりに、脳を若く保つために心がけていることがあります。

一つ目は、読むこと、書くことです。本、聖書、新聞を読み、このブログを月に一度は必ず書くことを、何が何でも守ってきました。振り返ると、これが一番の脳トレーニングになっているように思います。

二つ目は、体を動かすことです。150008000歩相当の運動量を目標に、週5回以上は維持しています。散歩は体だけでなく、脳の血流も良くすると言われています。毎日、何かしら外に出るようにしています。

三つ目は、心の持ち方です。できるだけ思考を前向きに保つこと。聖書の教えである「マイナスはプラスに変えられる」という考え方は、高齢者になってから、むしろ強くなった気がします。

一方で、できていないこともあります。新しいことを毎日少し取り入れること。行ったことのない場所に行く、違う道を歩く、初めてのジャンルの本を読む等――小さな挑戦でよいのですが、なかなか実行できていません。

このブログも、似たテーマが多いことに気づき、改善したいと思っています。

もう一つは、人と語り合うことです。対話は脳の総合運動だと言われます。夫婦の会話は多い方だと思いますが、他の人と膝を突き合わせて語り合う機会は、かなり減りました。

教会での交わりも週に一度です。何とか良い機会をいろいろと見つけたいと、模索しているところです。

河津桜

年老いても青々と実を結ぶ

詩篇9214節(新改訳聖書2017)には、次のような言葉があります。

「彼らは年老いてもなお、実をみのらせ、青々と生い茂ります。」

年齢を重ねる中で、体や脳の衰えを覚えることは避けられません。しかし、私たちの歩みは、自己努力だけではなく、日々を支え、導いてくださる神の恵みの中に置かれています。

神は、年老いた後もなお実を結ぶ人生があることを、約束しておられます。脳を老化させないという小さな心がけも、与えられた命を大切に生きようとする応答の一つなのかもしれません。

今日という一日は神からの賜物であり、心と体を用いて歩んでいく。その積み重ねの中で、私たちは年を重ねてもなお、主の前にみずみずしく、青々とした実を結ぶ者でありたいと願います。

2026年2月9日 小坂圭吾


 

2026年1月26日月曜日

今を生きる「計画を立て、見直す」

 

葉牡丹

昨年を振り返って

2025年を振り返り、新しい年の計画づくりを、昨年末から年始にかけて数日かけて行いました。目標を立て、それがどの程度実行できたかを確認し、その結果を今年の目標に反映させています。

こうした点では、私なりにPDCAサイクルを回していると言えるでしょう。PDCAサイクルとは、PLAN【計画】→DO【実行】→CHECK【評価】→ACTION【改善】のことです。

このサイクルを回すことで、らせん階段を上るように、私たちも成長していくことができるのだと思います。

先日、昨年のスケジュール日記帳(スケジュール主体に日記風のメモをする日能のB6ダイアリー。10数年来愛用)を、1年分ざっと読み返しました。

すると、
「これはブログに書けそうだ」「これは1年を通してやや難儀したが、いやされて良かった」「これは注意していたので守られ、感謝だ」「これは試みたが、うまくいかずにやめたな」など、さまざまな気づきが与えられました。

ここに宝があると、改めて思わされました。時々、過去のダイアリーを読み返すのも良いことだと感じています。

ともかく、健康に留意!

昨年2月に風邪をひいて以来、この1年はインフルエンザやコロナ、風邪にかからないよう、とにかく気をつけてきました。

ある医師の先生が、これらの患者さんを多く診察しておられるにもかかわらず、十数年風邪にかかっていないと言われ、その注意点を教えてくださいました。

それは、①普段より少ししっかりしたマスクを着用すること ②手洗いを徹底すること ③くしゃみをする人がいたら、息を吸わずに止めることでした。

外出の際には、夫婦で共に心がけています。さらに、加湿器を性能の良いものに替え、湿度を4050%に保つこと、換気扇を回すことにも注意しています。

また、「少し体調が悪いかな」と感じたら無理をせず、休むようにしています。先日も仲間の集まりがありましたが、調子がすぐれず、朝になって欠席の連絡をしました。

歳を重ねると、無理ができないと分かっていても、行動が伴わないことがあり、失敗することもあります。「やりすぎに注意」と自戒しつつも、なかなか難しいものです。

今年の目標を立案して

私の目標では、まず主題聖句を二つ掲げています(ここ数年、同じ聖句です)。

主題聖句
「私と私の家族は、主を礼拝する。」(ヨシュア2415 現代訳)
「明日のことを心配する必要はありません。いつでも、その日その日を精一杯生きればよいのです。」(マタイ634 現代訳)

続いて心構えを五つ、計画は三分類で五項目記しています。


まだ1か月も経たない時点で目標を眺めていると、「これは加えたほうが良い」と気づくことがあり、その都度書き足しています。このような修正は、年に12度あります。

昨年、新しく始めたことに詩吟があり、計画にはありませんでしたが、数か月試し、教室にも入りました。しかし、自分には合わないと感じ、やめることにしました。

一方、今年の計画から外して休んでいた囲碁については、やはり再開しようかと考えています。「継続は力なり」と言われるように、ここでやめるのは惜しいとも感じるからです。

かつて、ゴルフも一度やめましたが、「高齢になってもできるスポーツはこれしかない」と思い直して復活し、10年になります。生涯、可能な限り続けるつもりです。


計画の見直しの中で

一年を振り返り、計画を立て、見直しながら歩む中で、改めて覚えるのは、その一つひとつの過程において、主が共におられ、導き、時に立ち止まらせ、守ってくださっているということです。

思うように進まなかったこと、失敗したこと、やめる決断をしたことも含め、すべてが無駄ではなく、主の御手の中で次の歩みにつながっているのだと思わされます。

「明日のことを心配する必要はありません」という主の言葉に励まされつつ、今日一日を誠実に生きること。その積み重ねの中で、「私と私の家族は主を礼拝する」という歩みが形づくられていくのでしょう。

今年もまた、計画を持ちつつ、主に信頼して歩んでいきたいと思います。らせん階段を一段ずつ上るように、失敗も含めたすべてを用いて成長させてくださる主に期待しながら、与えられた日々を大切に生きていきたいと願っています。

2026126日 小坂圭吾