2015年5月14日木曜日

歴史探訪「備中高松城・水攻め」



ローカル線・JR吉備線
3月下旬、岡山へ12日の出張でしたが、早くに仕事が終わり、このまま帰路に着くにはもったいないと岡山観光案内所で手軽に行ける良い場所を案内してもらいます。豊臣秀吉の水攻めで有名な“備中高松城”にいざ出発です。

岡山駅からJR吉備線に乗車、2両編成の電車の座席はほぼ満席で、ローカル線としてはにぎやか。おじいちゃん、おばあちゃん、おばちゃんの顔を見ながら、やはり岡山の顏だなと、岡山県人には不思議とそれなりにわかるのです。

のどかな車内と車窓を見ながら20分あまり、「備中高松駅」で下車。駅前の看板地図を見ていると、そこへ数人の高校生の人が通り、「備中高松城へは、どのようにいけばよいの?」と聞いてみます。自分で行った経験がないような返事ですが(若い人たちには関心が薄い?)、言われた方角に歩くとやがてはっきりわかる地図あり。

更に10分歩くと、前方から中高年10人ほどのウオーキングの一団で「もうすぐですよ。この先を左です!」やはり中高年の方が確かです。

備中高松城・水攻め


1582年に織田信長の家臣・羽柴秀吉が、毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻撃します。

お城の周囲は沼地に囲まれ難攻不落で、黒田官兵衛の策により、城を大規模な堤防で囲み、折しも梅雨時で川の水をせきとめた堤防内には水があふれ、城は見事に水没、世に言う「備中高松城・水攻め」です。

平坦な低湿地の中の城に、数千人もの兵士らが籠って持久戦になったとは想像できません。水攻めの最中に、織田信長が討たれる本能寺の変が起き、秀吉はただちに和睦を結び、城主清水宗治は、「自分が切腹をして家臣の命が救われるならば」と承諾します。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」という辞世の句には、この気持ちが読み取れます。秀吉は、宗治を武士の鑑として賞賛したと言われます。
    
のんびり一人旅
初春の陽気に誘われながら、お城の跡、当時の堤防図、城主清水宗治の辞世の句と彼の墓等を見ながら、のんびりと散策しました。駅に戻る途中に少し大きなスーパーがあり、コーヒーも飲めそうなので立ち寄ります。

地元の人々が34人集まってコーヒーを飲みながら談笑しています。買い物に来た地元の人がそこの輪に入り、談笑して立ち去っていきます。2030分ほど、ぼんやりと彼らの話や光景を見聞きしつつ、都会では見られないなとうらやましい思いがしました。

のぞみ号の自由席に乗って帰路に、途中から乗ってきたお隣の方とお話をすると、何と旅行会社に勤めておられ、旅の秘訣を色々と耳学問することもできました。

半日のんびりとした時間でしたが、短時間であったとはいえ、見知らぬ土地を一人気ままに歩いて、精神面のエネルギーを蓄えることが出来ました。黒田官兵衛がどのような思いでこの土地をまわり、高松城の水攻めをやる策を考えたのか、彼の心を推察したりもしてみました。

全身の神経細胞も刺激され、心も体も大いに力をいただいた気分でした。人々とふれあいや見聞の喜びを実感し、感謝な一人旅でした。

2015514日    小坂圭吾