2015年8月8日土曜日

聖書の不思議「太陽が運航を止めた~消えた一日」

     
箱根大観山より芦ノ湖を望む

     聖書は神のみ言葉
聖書を読んでいますと、「神のみ言葉」であると信じていても不思議な事だなと思うところがいくつかあります。神様のなさることなので、それが真実であろうと受け止めているところが、科学の発展により、その奇跡の証拠が示されますと、「やはりそうだったのだ。聖書の言葉は確かだな。」と感じるのです。

今回取り上げるのは、“まる124時間太陽が運航を止めた”という聖書の記述です。具体的には、次の通りです。 ヨシュア記101214節、ヨシュアが主に大声で祈ると、イスラエルの民が敵を絶滅してしまうまで、太陽はほぼ1日天にとどまったままで、動かなかったとあります。②Ⅱ列王記20章8‐11節、ヒゼキヤ王の要請に従って、預言者イザヤは、日時計が10度あとに戻ることを祈ると、主はそうされたとあります。

この二か所を読むと、主は不思議なことをされるものだと思います。

     消えた1

アメリカのインデイアナ州の新聞『勝利の生活』に「どうしたら消えた1日を見つけることができるか」というタイトルの記事が掲載されました。

1960年代の始め、アメリカ大統領の命令により、月に人間を着陸させるための研究が、NASAで盛んに行われていました。月に着陸する時間を計算するために、宇宙科学者たちは、今から100年後、または1000年後の太陽と月、または星の位置を知るために徹底した計算をしなければなりません。
 
それまでに発見されている小惑星や遊星の軌道を計算し、人工衛星を打ち上げたときにそれらがぶつからないようにするためです。

ある日、科学者たちは、正確な時間を測定するために過去から未来までの時間を細かく区切ってコンピューターを作動させていた時、突然、コンピューターが止まったのです。時折、入力した資料に問題があるとか、出力された結果がほかの値と大きな誤差がある場合、コンピューターが止まることがあるのです。

札幌大通り公園の日時計
コンピューター技術者が言うには、「コンピューター自体には、何の問題もなく、正常です。コンピューターのプリントアウトによると、過去のどこかで、24時間がなくなっていると出ているのです。」全員で、資料を再検討し再入力もしてみるも、結果は、同じでした。論理的な説明や解答を見つけることができません。

みんなが困り果てていると、クリスチャンである科学者の一人が次のように言いました。「私が日曜学校に通っていたころ聞いた話ですが、旧約聖書の時代に太陽が一日止まったというのです。」みんなは半信半疑でしたが、聖書の内容を確認してみました。
 
それが前に記した①ヨシュア記101214節です。聖書に出てきた事件を参考に計算してみますと、ヨシュア記で太陽が止まっている時間は、ほぼ1日で、23時間40分でした。まだ説明できない40分が残っていました。

みんなが頭を抱えていると、クリスチャンの科学者が、別の聖書の箇所②Ⅱ列王記20章8‐11節を思い出したのです。10度とは、正確に40分を意味します。

  と②を合わせると、宇宙科学者たちが説明できなかった“消えた1日”を、正確に説明することができました。

     半信が事実に!

この記事を読んだときに、当然ながら、「聖書の記事は事実だったのだ!」と感動しました。私は、聖書記事については、神様のなさることだから真実であると信仰的にそのように受け止めています。半信半疑ではなく、疑ってはいなくても半信だった部分もあるかもしれません。このNASAの宇宙科学者たちは、“消えた1日”を聖書の中で奇跡的に見つけて喜んだように、私も大いに喜びました。

実は、この記事は、「I LOVE 聖書」(ジョン・クアウン著、小牧者出版)より引用させていただきました。聖書を愛する方々には、ぜひお読みになることをお勧めします。聖書に対する視野が、さらに大きくなることでしょう。

20158月8日    小坂圭吾

2015年8月7日金曜日

聖書の不思議「キリスト教の前提は何か」




      人は猿から進化?

中学生の時でしたか?学校の先生から“人の進化についての図”を見ながら説明を聞いた覚えがあります。「へえ、そうなのか??人が猿から進化したとは、ほんとかなあ?」それ以来、それらしき進化の話を聞いたこともなく、信じることもありませんでした。
大学生になってキリスト者学生会(KGK)主催のキリスト教講演会に導かれ、「人生とは何か?を探求しよう」と教会に行き始め、聖書を真剣に読み始めました。

最初に疑問になったのが、「科学とキリスト教は、衝突をするのではないか?」ということです。「科学とキリスト教について」色々と本を読みました。理性でわかることには限界があり、その理性の限界を超えた世界がある。時間に対しては永遠、有限に対しては無限、相対に対しては絶対という世界がそれです。

理性を超えたこれらの世界は、想像することは出来ても、それで止まってしまいます。人間の理性を超えた世界を知ろうと思えば、そちら側からの啓示による以外には手がありません。神の啓示を前提にしなければ、私たちは、何も知ることが出来なくなるのです。

    キリスト教の前提

自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提にしています。この前提は、要件として存在的、肯定的、限定的でなければなりません。その前提が正しいか誤っているかを決するのは、その前提から導き出される結果が、適切に説明されているか、正しく当てはまるかどうかということです。 
    

ちょっと難しい話になりましたが、要は、キリスト教にも前提があり、この世界を創造された唯一の神がおられ、その神が、私たち人間を救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書であるということです。
したがって、創造主なる神がおられて、神が啓示された聖書の教えを人間に当てはめてどうなるかを見ることにより、この前提が正しいかどうかを判断するわけです。科学によって、神の存在、創造主の存在を証明することはできませんし、これからも証明されることはないでしょう。

科学によれば、神が存在する・神がこの世界を創造されたという「理にかなった証拠」を提供してくれます。しかしながら、神の存在を信じられるかどうかは、「信仰の問題」になるのです。

                            
私が見出したこと


私は、“この天地を創造主が造られた!”という前提に基づいて、この世界の起源をより適切に説明しているかどうかを調べ考えてみました。いろいろと本を読み調べました。これは、それほど難しいことではなく、この宇宙と自然界そしてこの人間の構造をつぶさに知ると、それは驚き以外の何物でもありません。

これは、早くに理解をすることができ、この世界の背後にデザインをされた方がおられることを素直に認めました。信じるというより、創造主がおられることを見出したのです。この時は、大学の勉強よりも聖書を読み、これらのことを調べることのほうが楽しく夢中でした。学校では、ほとんど教えられない壮大かつ神秘な世界を探求し、それも事実としてわかっている身近な事柄ばかりなのです。そのことに夢中で大学1年生の学業成績が芳しくなく、父に代わって兄から電話でひどく叱られました。(翌年から、学業成績はかなり取り戻しましたが!)           

創造主なる神が、私との関係でどうなのか、神さまを信じるとはどういうことか?「聖書は、人が人として正しく歩んでいくことを導いてくれる書物」であることはわかりますが、私の救い主を信じることがわかりません。ともかく、聖書をしっかり学ぶ、何か真実があるのではないかと求道する姿です。

教会やKGKの集会に出て聖書を読み学び、色々な本を読み漁り、やがて、この真実な道にかけてみるしかない、飛び込んでみないとわからないのではないかと導かれたのです。日曜日の礼拝の時に「この道にかけてみよう!」とイエスキリストを私の救い主として受け入れる信仰へのジャンプをしたのです。「人が人として生きる道が、そこにはある」と求めて見出したのは、全くの恵みによることです。
      
2015年6月15日    小坂圭吾