箱根・ポーラ美術館 「睡蓮の池」クロード・モネ 「 |
自分史を完成
今月、自分史を1冊の本としてまとめ上げました。自分史を書き始めてから12年もの歳月が流れ、よくも諦めずに書き上げたものだと思います。
当初は子供や孫に何か役立つものを、さらには信仰継承をとの思いで書き始めましたが、途中からは教会の人や親しい人のお役に立てればとの思いも湧いてきました。
読み手の範囲を少し広げることを意識して、自分なりに工夫してきたことや、その年齢にならなければわからないことなども書いてきました。昨年、マサカの出来事である妻の看病等で、書籍としての完成は1年遅れとなりました。
少し時間が経過し、改めて「自分史の目的」について考え直しました。書き始めた頃とはかなり状況が変わったことを鑑みて、子供や孫に対して、信仰のあかしと家族の歩みの記録となるものを提供することにしました。
自分の人生を思い返す
この半年間、自分が書いた文章を読み返し校正をしながら、再度、自分の人生を思い返すことになりました。特に写真を色々とあさり、集めていくと、次々と色々なことを思い浮かべるものです。
全く忘れていたことでも、写真があれば、すぐさまその時の状況に戻ることが出来るのです。特に幼稚園から小学校、中学校、高等学校、大学時代の懐かしい良いことの数々を思い浮かべました。苦しいこと、耐えがたいことよりも、楽しいことが多く残るものです。
就職してからも同じようなものですが、どういうわけか、それ以前の方が懐かしく思われます。それらの良いことの数々は、自分の努力よりも、天から与えられ備えられていた、周りの支えによってそのように出来たということです。
自分に与えられた賜物(能力、性格、体力)、育った環境(両親の保護、兄弟の援助、親族の援助等々)、学校の先生の指導、友達との切磋琢磨、就職してからは、先輩や同僚の援助や好意、上司の指導等々、数え上げればきりがありません。
自分の努力の占める割合は、1/100いや1/1000、いえもっと小さかったのではないか?それを推し量ることはとても難しいことですが、そのように感じています。
挫折や失敗の数々
一方で、人生には挫折や失敗、危機、苦難が多々あります。多くの耐え難いことがありましたが、受けた良いことの数々を思えば、それは、感謝なことに変えられているのです。
その時は落ち込んだ挫折でも、やがて良いことに変わり、本当に良かったと思い起こします。マイナスはプラスに変えられるとの聖書のみ言葉通りです。
いざ現実に戻って、今失敗することは何かといえば、一番は”口の禍”ではないかと思われます。自分の人生を思い返すときは、大きな事柄を捉えて、あの時のあの事柄が大変だったと思い返します。
自分の語った口の禍、「あらゆる無駄な言葉」については、ほとんど忘れて消えていくのです。相手の反応があれば、失敗したことに気が付きます。失敗した言葉を少しは思い出しますが、指折り数えてそれほど出てこないのです。多大な迷惑をかけていたであろうと推察します。
私の口に見張りを置く
最近読んだ本に、「しばし立ち止まり、振り返る~人生の旅路と霊性~」(太田和功一著、あめんどう)があります。
”しばし”でよいので立ち止まり、祈りと黙想の時を持つことの大切さを強く教えられました。更に「心の生活習慣病」について取り上げられていて、人との会話において、いかに無駄な言葉を発しているかを教えられ、私にも当てはまる様々な心の生活習慣病に気づかされました。
「人を正したい症候群~”でも”という口癖」「詮索病症候群」「話し横取り症候群」「何でも原因究明症候群」等々10個ほど取り上げられていますが、そのうちのいくつも私が失敗してきた癖があり、他の人に指摘されたこと、他人のふり見てわが身に気が付いたこと等があるのです。
この写真は、私の机にあるものです。
「主よ、私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」(詩編141:3)もう数年の前にこのことに気が付き、妻に書いてもらって額に入れました。
毎日のように暗唱し、何年かは机の上に、しばらくして書棚に移動させました。今回、この本を読み、机の上に戻してきました。無益で、不用意で、無駄な言葉がいかに多かったかを思わされるのですが、「主よ、私の口を見張り守ってください」と祈る、これは天国に行くまで私の霊的修練であると思わされています。