2010年11月19日金曜日

喜び 「ラジオ、テレビを考える」

     ラジオの気分
日本で初めてラジオ放送が始まったのが1925322日で、今年で何と85年目を迎えました。変化に敏感なテレビに対して、4050年続く長寿番組も珍しくないのがラジオの世界です。私も車を運転しながらラジオを聞きますが、「永六輔、誰かとどこかで」の番組を聴くことがあります。これは、TBSラジオで1967年から始まったそうで、永六輔さんの声を聞きながら、かなりの年令だろうなと思いながら聞いています。意外にもラジオの年間販売台数は、300万台ほどあり、語学習得や防災用の必需品として用いられるようです。
我が家にも数台ほどありますが、内2台は、1520年ほど前の古いラジオです。昔のものは、作りが良いのでしょうか、長持ちがしますね。数年前に買ったラジカセは、数年でカセットデッキが壊れて買い直しましたが、それも数日で壊れてクレームをつけたところ、すぐに新品と交換してくれました。今は、大丈夫なようです。数台の内1台は防災用ラジオで、1台はダイニングキチンにあり、どちらも“ながら”用ラジオとして使っています。残りの2台は、私と妻それぞれ専用です。時々、夜7時のNHKテレビニュースを、ラジオから聞きながら食事をすることがあります。食事の時は、必須でない限りテレビはつけないか消音にしています。その方が、ゆっくりと食事ができるからです。
     テレビに思う
 テレビが世に出てしばらくして、「テレビで一億総白痴化する」と発したのは、有名な評論家の人だったと思います。1日平均どの位テレビを見るかの調査によると、あまりにも多いのに驚かされます。一億総白痴化が、現実の姿になっているのでしょうか?テレビの悪い影響に毒される、あるいは深く考えることをしなくなっている現実があります。
この十年ほどのテレビ番組を見て、不愉快に思うことがいくつかあります。ひとつは、見たいと思う番組がほんとに少なくなってきて、どうでも良いようなクイズ番組や低俗なお笑い番組が横行して見る気になりません。私の場合、ニュースと特別番組そしてスポーツ番組、映画くらいが中心で、他はあまり見ません。

肝心のニュース番組で、不愉快に思うことがあります。それは、殺人事件やひき逃げ事件、殺傷事件について、毎日にように微に入り細に入り、これでもかこれでもかと言うように繰り返し同じ事報道します。これには、うんざりします。事件の進展がないのに、繰り返し同じこと報道するのは、止めてほしいと思います。その報道の仕方があまりにも配慮が足りないというか、遺族の方のことを考えるともっと違う表現をして良いのではないかと思うことがしばしばです。自殺、他殺の表現として、事実言うとしてももう少し何らかのデリカシーがあっても良いのではないでしょうか?現場の生々しい実態事細かく淡々と報道する、しかも言葉が連呼されるのは、まことに聞くに耐えません。そこまでいう必要があるのか疑問に思い、担当デイレクターにも文句言いたい気持ちです。            
                                          
    ラジオ脳を鍛える
 古くからの知人でクリスチャン先輩・増沢康年さん、彼は、NHKラジオの英会話講座を聞き、腕を磨いた人です。もうかなり前のことですが、千人会堂建設のためにアメリカの教会視察に御一緒した時ですが、英語で自己紹介をする時がありました。その時、彼が易しくともきれいな発音で自己紹介をされました。そのわけを聞きました。なにしろ朝早起きの彼ですので、「会社に一番に行くと、NHKラジオの英会話をまず聞きます。これが長年の習慣です。」と秘訣を話してくださいました。「継続は力」身近なすばらしいお手本です。

 ラジオは、脳を鍛えると言われます。視覚に頼ることがない分、音や言葉が連想の刺激へとつながり、音声を映像化する必要があり、脳には負担がかかりますが幅広く活性化されていくのだそうです。テレビの場合、脳力アップには不向きだといわれます。ラジオは、何かをしながら聞くという「ながら」が特徴ですが、同時に二つのことを行うというのは、脳にとっては高度な働きになります。ですから、脳を鍛えて老化を防ぐことにもつながるのです。テレビやインターネットや携帯電話やら便利な世の中になって、頭を使わなくなったと感じるのは、私だけではないと思います。脳は甘やかすと衰えてしまいますが、鍛えると成長するのです。

何事も鍛えること、訓練する事を忘れてはならないと思い起こしました。ラジオとテレビについて考えてきたら、こんな事に結論がいたりました。色々なことが便利になり、とかく楽なほうへと流れていきがちな私たちです。そんな時、つらいことや嫌なことを忍耐することにより、後で見るとそれがほんとに良かったのだと思うことがいかに沢山あることでしょう。どうせやるなら、鍛える事になるような生活をしたほうが、良いようにも思います。

「およそ、鍛練というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(ヘブル 12:11 新共同訳)

2010年11月19日    小坂圭吾