2022年4月5日火曜日

喜び「バカになる、寅さんシリーズ50周年記念作品」

郵便局の年賀状より

50周年記念作品

先日、NETFLIXで寅さんシリーズ50周年記念作品である「男はつらいよ お帰り 寅さん」を再度見ました。一作目の公開から50周年となる201912月に公開された作品です。

これは、新撮された登場人物たちの”今”を描く映像と、4Kデジタル修復されて蘇る寅さんのシリーズ映像を見事に紡ぎ合わせた新たなる『男はつらいよ』の物語です。

生みの親である山田洋次監督自身が「今まで観たことのない作品が出来た」と驚かれたほどの映画、50年の歩みがあったからこそ完成したものです。私もこの寅さん映画の大ファンで全て見ています。

何度も映画館にも足を運びましたが、あの観客席の和やかな雰囲気は、他の映画では経験した事が無いなと思い出します。

渥美清の寅さんが、団子屋「とらや」の裏手にある印刷工場で働く若い工員たちに、親愛の情を込め「労働者諸君」と呼びかけるとき、あるいはおいちゃんが、甥の寅さんの愚行を眺めながら思わず「馬鹿だねぇ」と溜息ながらに嘆く時、観客席は爆笑に包まれる。

このおかしさは、その場にいる者には複雑な内容が瞬時に観客に伝わり、大きな笑いとなります。寅さんの言葉には、この種の味わい深い、面白おかしいセリフが随所にあります。

「寅さんの人生語録」ですが、一見すると陳腐なセルフの羅列に見えますが、寅さんを知っている人には、何とも愉快なのです。

誰がしゃべっても面白いというわけではなく、渥美清の寅さんが話すときに、その言葉の深い奥行きとニュアンスが出てくるのです。かつて、楽しみながら寅さん研究に励んだものです。

若いときの思い違い

この寅さんは「バカを地で行っている」のです。「頭がいい」わけでもなく、「知識がある」わけでもなく、学歴などあるはずがなく、ただ向上心はあります。人間の価値はと言えば、学歴や頭の良し悪しではなく、知恵が働くかどうかで決まることを教えているともいえます。

寅さんを見始めてから、「バカになる」事について考えさせられました。若い時には、知っていることが良い、尊いことでに走りたがる。そういう時は、知らぬ人がバカに見える。

年を重ねると人は理屈では動かないことを知り、知識だけではつまらないことに気づくようになる。若いときの思い違いを悟るのです。

利口がバカらしくなり、これが『利口バカ』だと悟るのです。人がバカに見える間は器が小さく、努めてバカになると不思議に人望が集まり、これぞ利口なのかもしれません。

自分のばかげたこと、失敗したことをオープンに話す人に人が集まり、ドンと自分を落とした話は、人々の心にすんなりと入っていきます。バカの利口という言葉もあり、口では『バカになる』といっても、それができる人は極めて少ないのです。


寅さん映画を見る理由

寅さん映画の公開は、昭和44年(1969年)8月で観客動員数(映画館に足を運んだ人)が54万人、人気はうなぎ上りに上がり、やがて100万人、150万人、昭和47年の第9作「男はつらいよ、柴又慕情」(マドンナ・吉永小百合)から更に人気上昇し189万人、経済の右肩上がりにつれ(?)200万人を軽く突破する観客動員数が続きます。

最大の観客数は、昭和4812月公開の第12作「男はつらいよ、私の寅さん」(マドンナ・岸恵子)で241万人でした。その後、超ロングランになりますが、140万人から220万人の人々が毎回この映画を楽しんでいます。

48作までの観客動員数を合計しますと約7970万人、日本人口の2/3が見たことになります。作家の井上ひさし監修の「寅さん大全」の本の中で、人々はなぜ四分の一世紀もの間、このシリーズを倦むこともなく観てきたのか、その理由の一部を掲載します。

「寅さんは、一種の自由人で好きなときに好きなところへ行くことができる。成人男子の7割前後が給料生活者、給料と引きかえに自由を束縛されている。だから身軽な寅さんに憧れ、彼を観るために映画館に出かけてしまうのだ。」 

「渥美清の演技がまたすばらしい。渥美が寅さんか、寅さんが渥美か、どちらがほんとか分からないぐらいすばらしい。」 「どちらがほんとか分からないようにするために、彼はこの25年間、出演をほとんどこの映画1本に絞ってきた。そこが偉いね。」 

「彼のその誠実さが当然、寅さんにもにじみだし、お客さんは寅さんを信用する。」  「寅さんと妹さくらとの情愛にいつも打たれる。」 「マドンナが毎回、変わるのが楽しみ。そのマドンナもそのときそのときの旬の女優が選ばれる。」 

「寅さんに妙に向学心があるのがおもしろい。」 「万事金の世の中に人の情けが生きていて、それがうれしくてほっとする。」理由をあげれば、際限がありません。まったく同感です。

キリストにあってバカになる

職場、学校、地域の中を見渡してみると、なんとなく人望のある人を見出すことが出来ます。その人は利口ぶっている人ではなく、バカぶっている人・バカになっている人ではないでしょうか。

本人がそのことを意識してなくて、自然体のままかもしれません。その人と話すと暖かみを感じ、親しみを感じます。その人のまわりにはいつのまにか人が集まり、会話も楽しくはずみます。

私たちクリスチャンも小利口に生きるのではなく、バカになって生きること出来ればと思います。あるがままの自分で飾らずに生きていきたいのですが、これがなかなかできない。

一人一人は、それほど立派でもなければ賢くもない。パウロのキリストにかける情熱、生き方を見ると、よくもあんなことが出来るなと思われることが多くあります。

キリストにあって、もはや失うものなど無いのではないか?神様から示されたことに正面から、情熱をもって、バカになって取り組む!キリストにあってバカになり「明るく、やわらかく、愉快に」生きたいと願います。

「もし、あなたがたの中で、自分は頭が良いなどと考える者がいたら、そんな愚かな考えはかなぐり捨てて、ばかになるがよい。というのは、この世の知恵などは、神の御前では実につまらないものである。」(コリント3章18-19節 現代訳)

2022年4月5日 小坂圭吾