尾山令仁師葬儀 (花は聖書を形どっている) |
先月、私の恩師である尾山令仁先生が天に召され、前夜式、告別式の二日間奉仕をさせていただき、霊的に豊かな祝福を受けました。その奉仕を通して、自分の人生の振り返りにもなりました。
大学1年生の4月に、早稲田KGKの講演会に出席し、そこで尾山先生にお会いし信仰に導かれました。その時、先生のお話を聞いて、「この大学時代に人生とは何かを探求しよう」と決心し、当時の高田馬場教会(聖書キリスト教会・東京教会の前身)に通い始めました。
聖書もしっかり読み、信仰の入門書や関係する本を次々と読みあさりました。大学の勉強よりも真理の探究の方が楽しく、取り組むこと約2年、天地創造の神さまがおられることを受け入れ、やがてイエスキリストが私の救い主であると信じ、しばらくして生涯この方に従って歩むと決心をしました。
ホップ、ステップ、ジャンプの3段階で信仰の確信を与えられたのです。当時の尾山先生は、内村鑑三の言葉「学生の信仰ほどあてにならぬものはない」を引用されて、そうであってはならないと私たち学生を特別に信仰訓練して下さいました。
大学4年間のこの信仰訓練があってこそ、社会人になってからもキリスト信仰一途で歩み、今日まで来ることが出来たと思います。高田馬場教会そして聖書キリスト教会・東京教会において、牧師長老による共同牧会の一翼を、ご一緒に担わせていただきました。
聖書に堅く立って歩み、聖書の御言葉を素直にまっすぐ信じることを身につけて来られたことは、本当に感謝です。
聖書に堅く立つとは?
私たちの教会は、”聖書は神の御言葉と信じ、聖書に堅く立つ”そして”自主独立の教会である”とその特徴を掲げています。福音派と言われる教会であれば、同じように”聖書に堅く立つ”と標榜していると思います。
「聖書は神の御言葉と信じる」のですが、「一つ一つの御言葉、全ての御言葉を信じる」ことが出来ているかは、自分自身に問うてみるとそうではないなと思わされます。
その通り信じる御言葉であると考えている一方で、その通りだがまだ霊的目が開かれてない御言葉があるのです。否定することはありませんが、悟らされてないことがあります。例えば、異言ですが、素晴らしいとは思いますが、それで留まっているのです。
信仰に入って間もない時、復活と奇跡については、信じられませんでした。その時に指導されたことは、わからなくても信仰生活を送っていくうちに、きっとわかってきて信じられると言われました。
全知全能の神さま、天地創造の神さまを受け入れましたので、神様なら出来るだろうと否定はしませんでした。すると早くに復活は信じることができ、やがて奇跡も受け入れられ、かなり経過して目の前で癒しの奇跡にも出くわさせていただいたのです。
聖書を素直に、まっすぐ信じる
ところで、信仰に入って数十年の教会生活は、聖日厳守、日曜日の仕事・勉強の禁止、安息日に旅行すれば罰が降る、禁酒禁煙等々、ついこの前まで、教え続けられてきたような感じです。
もちろん素晴らしい面もありますが、XXしてはいけないのような律法主義的な要素があり、これこそ正統的で聖書的であると信じて受け入れてきたものです。しかし、聖書が言っていることは、そこまでがんじがらめに縛っているのではないと私たちの目が開かれてきました。
かつての先輩の牧師先生たちが、聖書の言葉に命を懸けて闘ってこられたことによって、それが改革されてきました。
聖書の言っていることはこうではないかと、今までの伝統や習慣や西欧から持ち込まれた考え方等がひっくり返されて、聖書的に正しいものに改革され、祝福されてきています。
私が50歳の頃、聖書キリスト教会・東京教会の千人会堂建設に携わり、一緒に汗を流して会堂建設をして下さった技術者の方々がありました。
実に素晴らしい千人会堂に仕上げてくださった人々に伝道した時のこと、「毎週日曜日に教会に行かなければならない!これは腰が引けるなあ!」と言われたものです。
未信者の方にとっては、かなり律法主義的に映っていたことでしょうか。あれから、日本の教会への敷居は、かなり低くなってきました。キリストの心を具体化しようと懸命です。
私の恩師も、大きく信仰変革されました。「常に聖書がどう言っているかに帰れ」と御言葉に帰ることを、強調され続けました。私たち一人一人にとっては、聖書を素直にまっすぐに信じて従う。
そのことは聖書に書いてあるかな?と探してみてその言葉に従うことが、祝福の道であると思われます。聖書の言葉を素直に、まっすぐに信じる、このキリストの心を具体化して、毎日の生活をおくるものでありたいと願います。
「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。」(マタイ10:16 現代訳)
2023年6月11日 小坂圭吾