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湘南海岸~秋の夕暮れ |
敗戦後80年
この数か月間、「敗戦から80年」という節目にあたり、敗戦前後の出来事に関する記事を読み、テレビ番組や映画を多く見ることになりました。
また、ウクライナ宣教師の方から現地の戦争下の状況をお聞きしたり、親しい知人から幼少期の戦争体験を伺ったりしました。
そうしたことが重なって、「この日本は80年間戦争がなかった」ということへの感謝とともに、自分の生き方に鞭を当てられたような、姿勢を正されたような思いになりました。
そうした中で、妻が作家・三浦綾子さんの本を読んでいることに刺激を受け、私も手に取って読んでみました。綾子さんの本は家族がそれぞれに買って読んでいましたので、大方書棚に揃っています。
その中から『生かされてある日々』(新潮文庫)を、30数年ぶりに読み返しました。
『生かされてある日々』を読む
本書は、がんの再発の危機にさらされながら、粉ミルク療法で体を支えつつ、小説を連載し、エッセイを書き、各地の講演会に出かけられた様子を、日記という形で淡々と記したものです。
三浦綾子さんは、病と闘いながらも「自分が生きている」のではなく「生かされている」ことを深く自覚し、その使命に導かれて筆を執っておられました。
印象的なのは、「今日も一日やるべきことができた」「今日も講演に行けた」――感謝だ、という何気ない一言の重みです。健康であれば当然と思えることが、綾子さんにとっては命を削る努力の上にありました。
がんを抱え、体調を心配し、下痢がいつ来るともわからず、それにも備える。その中で全国を回っての調査と講演、訪問客や手紙・電話への対応――良いこともあれば、つらいこともある――そして執筆業。
体の元気な人でも大変なことを、三浦綾子さんはどこからその力を得ていたのか。それは、神によって与えられた「今日という日」を、丁寧に、感謝をもって生きる人の言葉だからこそ、彼女の言葉には力があるのだと思います。
「平凡な日常」を生きる
この本と並行して、『平凡な日常を切り捨てずに深く大切に生きること』(いのちのことば社)を再読しました。
これは三浦綾子・生誕100年記念ベストエッセイ集で、綾子さんの信仰生活の核心が示され、「しっかりと生きなさい!」という声が響きます。
「平凡な日常」と言いますが、神様が創られたこの日この時は決して平凡ではなく、毎日が新しいのです。白いキャンバスに今日のことを描けば、間違いなく昨日とは違う絵になります。
そこにある意味を深く掘り下げれば、新しい発見と感謝があるのではないでしょうか。東京ドイツ村・四季の丘~ケイトウ
三浦綾子さんはこう書いています。
「生きるということは、私は悲しみや苦しみに耐えることであると同時に、平凡な日常を切り捨てずに、深く生きることであるとも思う。
退屈なことのくり返しに耐えるというのは、実は大きな発見への一つの道だと思う。同じことのくり返しに目をやることによって私たちは、それらのものを新しく感じることができる。
うまく説明はできないが、~~神が創り給うたこの世に、1日たりとも平凡な日等あり得ないのではないだろうか。」
弱さの中に現れる神の力
「主はこう仰せられた。『わたしの恵みは、あなたに十分に注がれている。わたしの力は、あなたの弱さの中で十分に発揮されるからである。』」
(Ⅱコリント12:9 現代訳)
三浦綾子さんは、大きな病と痛みの中で、何度も弱音を吐き、涙を流されたことでしょう。
その弱さのただ中で、神の力を経験していかれました。「もっと健康であれば」「もっと力があれば」と思いがちですが、綾子さんは病の中でこそ、最も深く神の臨在を感じていました。
できないことが増える中で、「今できること」に心を集中させ、与えられた一日を神の賜物として受け取る。その生き方こそ、「信仰によって生かされる」姿ではないでしょうか。
敗戦から八十年という節目に、平和と命を与えられて生きていることの意味を思うとき、私たちは改めて「生かされている」ことの不思議と感謝に立ち返ります。
何気ない一日にも神の恵みが満ちている――その事実に気づき、弱さのうちに働かれる神の力を信じつつ、今日も与えられた日を丁寧に、感謝をもって歩みたいものです。
2025年10月15日 小坂圭吾