2026年4月15日水曜日

人生の目的「神の親友になる」

 

横浜・桜木町~桜満開
朝晩、主に祈る

私たちは、「絶えず祈りなさい」の御言葉に従い、デボーションや家庭礼拝を通して、朝に夕に祈りをささげます。

私たちの人生は、一日一日の積み重ねによって形づくられますが、今日を充実させるためには、始まりと終わりが大切です。

宗教改革者マルチン・ルターは、朝と夜、眠る前に必ず祈るよう教え、ジャン・カルバンも一日に五度以上祈ることを勧めています。

朝一番に祈るときには、神の御言葉を読み、黙想し、「いのちと知恵と平安の恵みを与えてください」と祈ります。夜には、その日に受けた恵みに感謝し、犯してしまった罪を悔い改める祈りをささげます。

旧約時代の信仰の人々は、一日三度祈ったとあります。祈りの人ダビデがその代表です。

初代教会の使徒たちも、この旧約時代の伝統を受け継ぎました。午前九時、昼十二時、午後三時は、当時一般的な祈りの時間でした。

クレメンスやオリゲネスなどの教父たち(1世紀末〜5世紀頃に活躍したキリスト教の指導者・神学者たち)は、一日三度の祈りは当然であると教えています。

信仰の先輩たちの祈りの様子を見ると、長く祈っていることが伝わってきます。これも良いことですが、短い祈りを一日に何度もささげることも、さらに良い方法ではないかと思います。


祈りは呼吸である

神と親しくなるためには、一日三度祈ればよいというものではありません。毎日のデボーションや家庭礼拝の習慣は、とても大切です。

しかし「絶えず祈りなさい」と言われているのは、それだけでなく、一日中「神と会話する」ことが求められているのです。

私は神学校で、「祈りは呼吸をするように、いつでもどんなことでも神に祈ることだ」と教えられ、目が開かれました。

祈りは、私たちの生活の中心であり、神との交わりであり、会話です。聖書を読むことによって神の御声を聞き、祈ることによって神に語りかけ、また聞くのです。

アウグスティヌスは「祈りは魂の呼吸である」と言っています。私たちは意識しなくても呼吸をしています。眠っている間も無意識に行っています。

同じように、祈りも絶えずささげることが大切です。信仰生活は、まさに「祈りの生活」なのです。

このことを教えられてから、私の祈りの生活は大きく変わりました。何かをしようとするとき、すぐに祈るようになりました。

仕事を始めるとき、途中で考え事をしているとき、食事の前、人との会話で失言に気づいたときの悔い改め、昼寝の前、車の運転中、探し物をするとき、寝る前――

もちろんデボーションや家庭礼拝でも祈りますが、このように短くても、その都度祈ることが大切だと思います。

八重桜

絶えず神と語り合う

とにかく、一日中、神さまと会話するのです。

神と親しくなるとは、人生のすべての経験を神と分かち合うことによって築かれます。神との親しい交わりとは、日常の出来事や思いをそのまま神に差し出すことです。

「今こうしていますが、知恵と助けを与えてください」「このように考えましたが、導いてください」「どうしたらよいでしょうか」「感謝します」――このような祈りです。

要するに、短い会話の祈りを一日通して続けることです。

この習慣が身につくと、神の臨在をいつでも覚えることができるようになります。感情ではなく、神が共におられるという事実を覚え続けることが大切です。

御言葉を思い巡らす

祈りとともに欠かせないのが、御言葉の黙想です。御言葉の学びに長い時間を取れなくても、聖句を思い出したり、心の中で暗唱したり、スマートフォンで開いて読んだりすることはできます。

このように御言葉を思い巡らすことが「黙想」です。ある問題を繰り返し考えてしまうことを「思い煩い」と言いますが、「問題」ではなく「御言葉」を繰り返し思うようにすればよいのです。

私たちは思い煩うことに慣れていますが、その意味では黙想する力もすでに持っていると言えるでしょう。

御言葉を思い巡らし、神に語っていただき、そして祈る――御言葉と祈りは一つです。このようにして神に近づき、神との友情を深めていきたいと願います。

「神に近づきなさい。そうすれば、神もあなたがたに近づいてくださる。」(ヤコブ48

2026415日 小坂圭吾