中学生の時でしたか?学校の先生から“人の進化についての図”を見ながら説明を聞いた覚えがあります。「へえ、そうなのか??人が猿から進化したとは、ほんとかなあ?」それ以来、それらしき進化の話を聞いたこともなく、信じることもありませんでした。
大学生になってキリスト者学生会(KGK)主催のキリスト教講演会に導かれ、「人生とは何か?を探求しよう」と教会に行き始め、聖書を真剣に読み始めました。
最初に疑問になったのが、「科学とキリスト教は、衝突をするのではないか?」ということです。「科学とキリスト教について」色々と本を読みました。理性でわかることには限界があり、その理性の限界を超えた世界がある。時間に対しては永遠、有限に対しては無限、相対に対しては絶対という世界がそれです。
最初に疑問になったのが、「科学とキリスト教は、衝突をするのではないか?」ということです。「科学とキリスト教について」色々と本を読みました。理性でわかることには限界があり、その理性の限界を超えた世界がある。時間に対しては永遠、有限に対しては無限、相対に対しては絶対という世界がそれです。
理性を超えたこれらの世界は、想像することは出来ても、それで止まってしまいます。人間の理性を超えた世界を知ろうと思えば、そちら側からの啓示による以外には手がありません。神の啓示を前提にしなければ、私たちは、何も知ることが出来なくなるのです。
キリスト教の前提
自然科学においては、普遍的原理と仮説を前提にしています。この前提は、要件として存在的、肯定的、限定的でなければなりません。その前提が正しいか誤っているかを決するのは、その前提から導き出される結果が、適切に説明されているか、正しく当てはまるかどうかということです。
ちょっと難しい話になりましたが、要は、キリスト教にも前提があり、この世界を創造された唯一の神がおられ、その神が、私たち人間を救うために示されたイエス・キリストによる救いの啓示が聖書であるということです。
したがって、創造主なる神がおられて、神が啓示された聖書の教えを人間に当てはめてどうなるかを見ることにより、この前提が正しいかどうかを判断するわけです。科学によって、神の存在、創造主の存在を証明することはできませんし、これからも証明されることはないでしょう。
科学によれば、神が存在する・神がこの世界を創造されたという「理にかなった証拠」を提供してくれます。しかしながら、神の存在を信じられるかどうかは、「信仰の問題」になるのです。
私が見出したこと
私は、“この天地を創造主が造られた!”という前提に基づいて、この世界の起源をより適切に説明しているかどうかを調べ考えてみました。いろいろと本を読み調べました。これは、それほど難しいことではなく、この宇宙と自然界そしてこの人間の構造をつぶさに知ると、それは驚き以外の何物でもありません。
これは、早くに理解をすることができ、この世界の背後にデザインをされた方がおられることを素直に認めました。信じるというより、創造主がおられることを見出したのです。この時は、大学の勉強よりも聖書を読み、これらのことを調べることのほうが楽しく夢中でした。学校では、ほとんど教えられない壮大かつ神秘な世界を探求し、それも事実としてわかっている身近な事柄ばかりなのです。そのことに夢中で大学1年生の学業成績が芳しくなく、父に代わって兄から電話でひどく叱られました。(翌年から、学業成績はかなり取り戻しましたが!)
創造主なる神が、私との関係でどうなのか、神さまを信じるとはどういうことか?「聖書は、人が人として正しく歩んでいくことを導いてくれる書物」であることはわかりますが、私の救い主を信じることがわかりません。ともかく、聖書をしっかり学ぶ、何か真実があるのではないかと求道する姿です。
教会やKGKの集会に出て聖書を読み学び、色々な本を読み漁り、やがて、この真実な道にかけてみるしかない、飛び込んでみないとわからないのではないかと導かれたのです。日曜日の礼拝の時に「この道にかけてみよう!」とイエスキリストを私の救い主として受け入れる信仰へのジャンプをしたのです。「人が人として生きる道が、そこにはある」と求めて見出したのは、全くの恵みによることです。
2015年6月15日 小坂圭吾