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神の御心を知る
キリスト者として、神に聴くことの次は、神に従うことです。信仰生活を一言でいえば、神に従う生活です。「クリスチャン」の意味は、「キリストのもの」つまり「キリストの奴隷」という意味で、キリストに従い、神の御心にかなった生き方をする者のことです。
神の御心にかなった生き方をするために、毎朝神のみ言葉を読み、聖霊の助けによって神の御心を聞いて知り、従っていけば良いのです。ですが、御心がわからないために困っているか、自分の考えで走ってしまっている現状があることでしょう。
神の御心にかなった生き方をするために、毎朝神のみ言葉を読み、聖霊の助けによって神の御心を聞いて知り、従っていけば良いのです。ですが、御心がわからないために困っているか、自分の考えで走ってしまっている現状があることでしょう。
聖書の原則をわかっていながらも、すぐにその原則から外れて行動してしまう愚かな私たちです。ですから、私たちは、自分の生活に照らして毎日聖書を読み、黙想しお祈りします。こうして聖書と祈りの中で、具体的な問題について、聖霊が働いて下さり、心の中に確信を与えて下さいます。この為に、熱心に祈ることは重要で、動くことのない心の平安が与えられたならば、従うことです。
神に従う~内的な服従
神に従うことは、色々な形があると思いますが、普通は、聖書を通して神が語り掛けてくださる事柄に従うわけで、二つの面があり、内的な服従と外的な行為です。“内的な服従”とは、心の態度を全て神に仕えていくという態度で従っていくことで、何よりも重要です。
み言葉を自分に適用するとき、自分にはできそうにない事柄にぶつかる時、ともかく神の力をいただいてやってみよう、神の力によってそれが出来ると信じ神のみ言葉に従う決意をすることが、“内的な服従”です。
み言葉に対して自分を無力にして従うことになります。例えば、罪から離れること・捨てることや全てのものを神にささげること等です。罪について考えるとき、自分のためか、神のためかという視点で自分の態度を探りますと、神のためと言いながらも、自分のためという考えが心の奥底にあるものです。これは、悔い改めて神に従うべきポイントです。
また、私たちの全て、時間もお金も才能も私たちの人生そのものが神さまのものです。ですから、キリストの弟子として、自分の人生の全てを犠牲にして神にささげるという心の態度、神への服従の態度は大切です。
神に献身するという言葉ですが、神学校に行って牧師とか伝道師になることだけを指しているわけではなく、神の働きの為に自分の全てを使って(犠牲にして)働くという事で、クリスチャン全てに求められていることです。
外的な行為神に献身するという言葉ですが、神学校に行って牧師とか伝道師になることだけを指しているわけではなく、神の働きの為に自分の全てを使って(犠牲にして)働くという事で、クリスチャン全てに求められていることです。
“外的な行為”とは、心で決心したことを信仰によって行動する、信仰により生きることで、“外的な服従”と言うことが出来ます。み言葉から教えられ心で決心をしたが、いざやろうかやるまいかと躊躇しがちですが、一歩踏み出して行動します。罪を捨てる決心や一切を神にささげるという決心を、具体的に行為として実行することです。
そればかりか、毎日主を仰ぎ見つつ、物事にたいして選択と決断をしていくことが求められます。私たちの人生は、右にするか左にするかの選択と決断の連続です。信仰によって生きるとは、神のみ旨と思えることを選び、決断し、実行していくことです。
自分の望みを優先させるのではなく、いかに神のみ旨を選ぶか、神への従順にかかっているのです。神の約束を信じ、それに従って生きる生活をしていく事が、神さまに喜ばれることです。実行してうまくいかなければ、また神に聴いて従っていけば良いのです。
このようにして、み言葉を体験し自分のものにしていくとき、信仰的に成長していきます。信仰生活は、体験であると言われるゆえんです。
このようにして、み言葉を体験し自分のものにしていくとき、信仰的に成長していきます。信仰生活は、体験であると言われるゆえんです。
「信仰が無ければ、神に喜ばれることはできない。神のみもとに来る人はだれでも、神が存在することと、神は求める人に必ず答えてくださることを信じることができる。」(ヘブル11:6 現代訳)
2018年6月16日 小坂圭吾