カナダ
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今年の残暑は、例年になく厳しいですね。暑い夏と言えば、幼少の頃(岡山・備前生まれ)の楽しい思い出が、次々に浮かんできます。小学校のとき、近くの川での水遊びや瀬戸内海の小さな島に臨海学校で宿泊(先生方は大変です!)、兄と二人で岡山の瀬戸内海岸の知り合いの家に1週間ほど寝泊りして海水浴(漁師の家、魚とみそ汁がうまい!)等々、なんとも楽しいうれしい思い出がいっぱいです。
田舎のガキ大将だった私は、小学校の先生に、私がリーダーで悪いことが見つかり、関係者一同(約10人)整列させられみっちり叱られました。ある時、母には1対1で悪かったことをトクトクと諭されたこと、父や祖父には罰として蔵の中に入れられたこと、夕方門の外に出されたこと(古い門構えです)や正座して行儀を教えられたこと等、叱られしつけられたことをよく覚えています。
全て良い思い出としてあるのは、叱り方/しつけ方が良かったのでしょうか。小学校の先生、祖父や両親からは、認められていることがベースにあって、色々なことを自由にやらせてくれ、間違ってやった場合がみがみ言わずに、急所でしっかり叱られたと感じています。4人兄弟の末っ子で、親も失敗を重ねて、知恵が出来たのかもしれません。
子育ての失敗
私たちの子育てについて、時に、子供たちと話し合うことがあります。話しての発見は、その当時の子供の状況や気持ちがわかってなかったなと思わされ、失敗したことが多かったなと振り返ります。父親として良く考えてやった事が、子供にはつらかったと聞かされ、「それは、ごめんなさい!」と謝ったこともあります。
父親なりに、子供のことは良く見るようにしたつもりですが、見えてない理解してないことが多いのです。家にいないのですから見えないのは当然で、それでもわかっているつもりになっていたにすぎないのです。
子育ての時に、自分が育った環境や親から受けた教育、自分が出来なかったこと等も反映して、親の願いが入ってやることになりがちです。それが子供にとっては大の迷惑!始めての子育てですのでそのことがわかりません。
例えば、子供が勉強をするように励ましますが、勉強をやる子はやるし、やらない子はできないのです。ところが、時期が来れば、本気になってやる時が来るもので驚かされます。子供の性格を考えてと言っても、その時よく見えていないので、不十分だらけで、子供を間違ってしか育てられないのかもしれません。
真の子供の教育とは!
私たちにとって傷だらけの子育ても、それなりに達成できたかなと主のあわれみに感謝しています。失敗も繰り返しながら、子供の人生は親がコントロールできないとある時に手放してから、主が益として下さったのでしょう。
子供にとって何度も岐路に立った時に、今思えばあのように判断が出来たのは、神さまの恵みとしか言いようがなく、失敗の判断も、後で見れば益になっていることが多いのです。親としては、そのような失敗経験が生きて、子供たちの子育ての失敗を見ても「神さまがやがて全てを益にして下さる」と祈ることが出来、余裕をもって見る、アドバイスできるのです。
現在は、孫育てについて考えることが多くなりました。一番上が高校卒業して受験浪人生、一番下が幼稚園生です。祖父母の役目は、小さいころに良い思い出を作ってやることであると孫たちを見ています。
孫7人7様の色々な性格で、男の子と女の子はこんなにも違うのかと驚かされ、一人ひとり、個性的な性格が浮き彫りに出てきます。親は、子育てを日夜悩みながら、神さまの恵みによって前に進んでいる、時には後退もありますね。
親にとって、その子育てがうまくいかなくなり、やがて親が子供を親の手から離す時が来ます。そうするとき、その子は、良い方向に間違いなく導かれていきます。
私たちの子育てや、子供たちの子育て(孫)を見て、間違いだらけの子育ての中から、その本質に気がつき、主が良い方向に導いて下さるのです。
箴言の言葉に“正しく教育せよ”と命じられていますが、これは、子供一人一人の人生は、主が定めておられるのだから、子供を親の手から離して、主にささげなさいと教えられています。主を恐れる個性教育、人格教育こそが、真の教育というべき事柄です。失敗が良い方向に向かうカギとなるのが、神の恵みです。
「子供をその成長過程で正しく教育しなさい。そうすれば、年老いても、そこから離れない。」 (箴言 22:6 現代訳)
2019年9月10日 小坂圭吾