ドウダンツツジの新芽 |
ドウダンツツジの新芽
先日、庭の木々をぼんやりと眺めていると“ドウダンツツジ”に何かが出てきているようです。生け垣として植えたもので、近づいてみれば、新しい芽が膨らみ始めていたのです。
ドウダンツツジは、春にはかわいらしい白い花をつけ、その後は新緑になり、晩秋には真っ赤に紅葉して、年中楽しませてくれます。丈夫で手間がかかりません。
2月4日は立春で、暦の上では春の始まりです。今年の冬も厳しい寒さの時がありましたが、数日前のお昼ごろ、家人と「もう春の気配を感じるな!」と言いながら散歩しました。頬にあたる風が冷たさを感じない日でした。
寒い中を潜り抜けて、新しい芽をつける木々、季節も冬から春に向かう今日この頃、小さな春をその気になれば、見出すことができるものです。
阪神・淡路大震災の記憶
先月中ごろ、阪神・淡路大震災(1995年1月17日発生)について新聞を読みつつ、当時のことを思い出しました。あのとき、勤務していた会社の同期の者が大阪で大震災に被災し、その日東京本社への転勤辞令が出るも数か月間は現職にとどまり、頑張ったのでした。
私の故郷は岡山ですが、親族は関西に住んでいる者が多く、ある親戚の家もつぶれて大変でした。1か月後くらいでしたか、岡山への帰省の途中に西宮によることことにしました。新幹線で新大阪まで行き在来線・山陽本線の岡山方面行に乗り換えました。
西宮近くになってきますと、社内での話し声が次第に小さくなり、やがて会話がなくなりました。西宮駅に降り立って、周りの風景を見るに声も出ませんでした。生れて始めてみる大震災のなす厳しい状況でした。
流浪の教会~地震、津波、原発事故~その後
信徒の友1月号に“編集者イチ推しの本”として推薦された『選ばれてここに立つ~3・11後を生きる」(佐藤彰著、日本基督教団出版局、2012年7月刊行)を読みました。
福島第一聖書バプテスト教会・佐藤彰牧師の著作は、これ以前に『流浪の教会~地震、津波、原発事故~』が原発事故後に緊急出版(2011年7月)され、少しでも支援になればと即座に買って読みました。
その後の200余名の教会員と牧師の「流浪の旅」について書かれた本が、この推薦された本です。これを読んで、東日本大震災の厳しさについて、再度心が痛みました。
人生の不条理は、突然様々な形でやってくるものです。突如巨大地震と大津波と原子力発電所の爆発という3重苦に投げ出され、バラバラとなりました。
家も故郷も無くなり、流浪の旅を始めたという点で、大きな試練の中に置かれたのです。私たちが予想する出来事をはるかに超えて、尋常ではありません。
この教会は、無牧が続いた農村の教会に、若い佐藤彰牧師が期待され招かれたのでした。以来40数年弱の間に、近隣の信徒の捧げた土地に3つのチャペルを建て、教会員も200名を超えました。
2009年には会堂を建て替え、神様に大いに祝福されました。新しいことも始めようとした矢先に、2011年3月東日本大震災による原発事故が起こり、すべての労苦が奪われたのです。
牧師も信徒も、教会を捨て、家を捨て、職場を捨てて強制非難となってしまったのです。全く何も持たずのままで~~。
人生は旅、プロセス
この劇的なストーリー、神様のなさる恵みの数々を教えられながら、何度も涙を流しながら読み、わが身のあり方をも振り返ることになりました。
この厳しい状況を経験された皆さんの生き方から、1日1日を精一杯歩まねばと思わされたのです。この本から少し引用をします。
イスラエルは故郷を出て外国に住み、その地で奴隷となり、モーセに率いられて脱出しましたが、その後は実に40年間もシナイ半島を旅したのです。誰も40年の旅なんてしたくないはずです。
でも気が付きました。聖書は「人生は旅」ということを懇々と語っていたということを。「そうか。旅ならば全部がプロセスだ。山登りにたとえるならば、1合目もいい、5合目もいい、途中途中で喜べないなら、いつ喜べるのだ」と。
いつから結果主義になったのでしょう。頂上でなければダメだ、0点だと。いつから成果主義になったのでしょう。100点か、0点しかないと。頂上に着いたか、まだか。福島に帰ったか、まだか、着けば100点、着かなければ0点と。
モーセは、出エジプトをして荒野の40年にわたる流浪の旅を終え、ネボ山ではるかにカナンの地を見ながらもそこに入ることを許されませんでした。
偉大なるモーセは、神様の言われることを素直に聞き入れ、自分の生涯としては十分であったと受け入れたことでしょう。
しかし、それだけではない、40年の旅そのものに意味があったのではないか?彼は、カナンの地に入ることを目指して歩みますが、明日はどうなるかわからない日々の旅です。
今日という日を精一杯歩むことが一番大切なことであり、その日その日を楽しみながら旅したに違いありません。
私たちは、今日と同じように明日もあると思って歩んでいますが、明日がある無しにかかわらず、この日を精一杯歩んでいきたいものだと強く教えられました。
「あなたがたは、明日どうなるかということさえ分からないのである。」(ヤコブ 4:14 現代訳)
「いつでもその日その日を精一杯生きればよいのです。」(マタイ6:34 現代訳)