2018年9月27日木曜日

歴史探訪「日本の開国を促したペリー提督一行」


ペリー上陸記念碑/ペリー記念館
横須賀が歴史を動かした!

趣味とまではいきませんが、好きなものと言えば、歴史探訪です。地元の歴史の中で、横須賀について学ぶことが少なく、少し探訪して見ようと思い立ちました。幕末の歴史を動かしたペリー提督一行、その記念館のある“ペリー公園”に行くことにしました。

横浜駅より京浜急行線に乗りかえ、京急久里浜駅で下車、バスで10分弱、徒歩でも20分位ですが、久里浜の海を臨む開国の香りの漂う公園です。とてものどかな街だなと思いをはせながら、ペリー公園に到着しました。園内に入ると正面に、“ペリー上陸記念碑”があります。

185378日にペリー提督一行が、浦賀沖に4隻の黒船で突然姿を現しました。ペリー(アメリカ)の目的は、日本を開国させて捕鯨船の補給基地として利用したかったのです。一行は、714日に久里浜海岸に上陸、その事を記念して建てられたのがこの記念碑で、伊藤博文の筆によるものです。ペリー公園の周囲は、数百本の松の緑が植えられ、青い海と空とに映えて和ませてくれます。

ペリー記念館

公園の一番奥に“ペリー記念館”があり、ペリー来航と開国の歴史を広く伝えるために建てられたものです。1階には当時の様子を再現したジオラマ模型の展示があり、2階に貴重な資料の展示があり、じっくりと見学しました。


4隻の黒船(2隻は蒸気船)のジオラマ模型ですが、当時の民衆は驚き、「泰平のねむりをさますじょうきせん、たった四はいで夜も寝られず」と当時の狂歌に歌われました。

「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用)夜眠れなくなる」という表向きの意味と「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄しているのです。

200年にわたる鎖国を続けていた徳川幕府が崩壊し、明治政府が成立していく幕末の時代の始まりで、新しい時代への幕開けです。この歴史の流れ・動きの中で「たかが4隻の黒船でそれほどまでになぜ驚愕したのか?」と疑問が残っていました。

歴史をひもといて

ペリー記念館を見て、色々な歴史資料を読んで発見したことがあります。当時の徳川幕府は、長崎を通して国際情勢をそれなりに認識しており、19世紀に入り次々と東京湾に諸外国の船が来航、アメリカは何度も開国を迫り、軍艦を派遣して来ました。

そして、来航したペリー艦隊一行は、4隻の黒船に乗組員約千人で、補給艦等も従えてその倍の乗組員にもなる大艦隊の編成で、大砲は計73門です。内2隻は、見たことのない世界最大級の蒸気船、船体に鉄を張ってあり、他の2隻も防腐のため黒く塗装がされていて、日本人は“黒船”と呼びました。

彼らは、襲撃に備えて臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて江戸湾の測量などを行い、祝砲や号令・合図を目的として数十発の空砲を発射し、民衆はさぞかし驚いたことでしょう。アメリカが再度来航すると知っていた幕府ですが、財政困窮のために海防強化が出来ていませんでした。


ペリー提督は、任務が与えられる前から日本について研究、日本遠征の基本計画を海軍長官に提出しています。諸外国の失敗例等を研究の結果、「長崎で交渉を行うとオランダが交渉を妨害する可能性がある。/任務成功のためには蒸気船を突き付け、産業先進国の軍事力を見せつける。/日本人との交渉は、恐怖や恫喝をもってあたる方が効果的である。」と書いています。

そこで、来航場所を長崎ではなく江戸湾の入り口浦賀にして、強大な軍事力を見せつけながら脅迫の作戦で臨んでいます。事前に良く準備をし、強力な軍事力と強引な行動をとる部隊に圧倒され、日本が泰平の夢を破られるには十分な状況だなと理解できます。

当時、日本もアメリカも戦闘を避けて、交渉により進めようとの意図だったことは、ほんとに幸いでした。背後にあって、歴史を動かされる神様の手があったことだなと思わされます。現地に行って一気に“幕末の歴史に思いをはせる”ことになり、当時の江戸幕府やアメリカ本国の動き、ペリー提督の人柄や家族の事にも興味を広げて本を読み、歴史をひもとく楽しさを味わいました。


2018年9月27日    小坂圭吾