事実を見る
本棚を見ていると柳田邦男の本が3冊(事実シリーズ)もありました。少し色あせていますが熟読した跡があり、懐かしくひもときました。若い頃にこれらの本を読んで教えられ、「事実を見る」という姿勢が養われました。
自分でなかなか出来てないのも事実ですが、この言葉がとても好きです。事実というものにこだわる、事実を基軸にしてという姿勢ですが、先入観や社会通念を捨ててということで、これが言うは易く行うは難いものです。
「事実をよく見る」としても、それだけで分かるわけでもなく、「事実をよく聞く」ことも求められます。事実を確かめるには、複眼で見る目が求められ、視点を斜めから、上あるいは下から、相手の立場に立つ、海外に移してとか柔軟に移動することによって、事実の本質を読み取ることにつながります。
名医はどこか違う
柳田邦男著「事実の読み方」(新潮社)の中に、この中にこんな話があります。
ノンフィクション・ライターとして著名な柳田邦男氏。これは彼の知り合いである外科医H先生のお話です。H先生は、今にもずり落ちそうな古い靴下をよくはいている由。部長の肩書きをもつ立派な医者が、何でゴムのバカになりかかった靴下をはくのか、傍からみると奇異な感じさえします。
このずり落ちそうな靴下を見ただけでH先生の人柄を判断すると「身なりをかまわない人」とか「だらしのない人」と思ってしまいます。(これは先入観あるいは全くの推測!)しかし、柳田邦男はその”秘密“をH先生から聞く機会に恵まれたそうです。
それによると、古い靴下を履くのは手術のある日なのだとのこと。大手術になると7―8時間も立ちっぱなしになり、足が冷えたり血行が悪くなる恐れがあります。新品のゴムのきつい靴下を履いていると血行に良くないので、ある時思いついてこのようにしたとのことでした。
手術を完璧なものにするために、ここまで気を配っていたというわけです。「やはり名医はどこか違うと感嘆した」と柳田邦男は書いていました。
よく見て、聞いてみないとわからない
事実というのは、その内容をよく確認する、よく話を聞いてみないと分からないもので、憶測や先入観を捨てないと間違いを犯してしまいます。事実は事実としても、それに自分の意見や憶測や先入観を加えることが何と多いことでしょう。
その結果、事実は脇に追いやられ、憶測や先入観に基づいた主観的判断が入り込み、真実とは程遠い話ができあがり、その話が人から人へと伝わるととんでもないことになってしまいます。
大事に至ったことを少し分析して見ると、意外と相手の話をしっかり聞いていなかった、見てなかったために誤解が誤解を、憶測が憶測を呼んでいたことが見えてきます。実に背筋の寒くなる思いです。
ある方より、こんな問題が起きていると相談に来られました。確かに聞く内容が事実だとしたら、大きな問題だと感じました。しかし、起きている状況や関係者の方々を見るに、こんな馬鹿な事実があるはずはないと思いました。
本人に直接確かめるにはどうかと思い、少し時間を置くことにしました。後日、ご本人からお話を聞く機会があり、そうだったかと驚きました。映画に例えていうならば、ある場面以降を見ると確かに問題に見えますが、その場面の10分ほど前の状況から見ますと何も問題ではありません。
テレビなどのニュースを伝えるときに、編集者の都合の良いところだけを切り取って問題にするのと似ています。事実をしっかり見て、聞いて判断することの難しさを学びました。
こんな教訓を思い出します。「他の人を裁く、悪く思う気持ちが起きたとき、よく知らないからそうなるのだ。」相手を受け入れられない場合、知らないことが多いので、悪く考えてしまいがちです。教会における交わりは、帰するところ人間関係です。
ですから、このような考え方も特に必要であるように思われます。目をしっかり見開いて「事実をよく見、よく聞く」ことの大切さは、言うまでもないことです。おかしいなと思ったら、まず見て聞いて確認する。その際、確かな情報源から確認することが大切です。
「尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ1:3-4)
2019年4月22日 小坂圭吾